「完治」と「寛解」という言葉。

こんばんは。

 

今日は昨日のポストとちょっと関係がある話かも知れません。

ちなみにですけど、今更遅ればせながらこのブログのスタイルが固まっていない頃の初期のプログラム内容やら比較的特定度の多い情報が載っているポストを削除しました。

基本的には私の体験を書いているので、他は個人情報を追えない内容に留めている範囲なのですが、念のため。コンプライアンス重視。

 

さて、表題です。

 

昨日はここしばらくの特殊な濃密スケジュールで気付いたら躁転したらしく、その程なく混合状態的になり、まあ激うつには発展することを留めましたが、ちょっと危険だなーって領域を久々に予見しまして。という内容だったかな、と振り返ります。

 

そもそも話として多くの精神系疾患は、「脳の機能不全」から来るものとも言われています昨今は。ウチのオクサンは「脳の誤作動」なんて言い方をしていますけども。

言いたいのは間違っても「心の病」っていうのは、いかがなものかと、ということです。

昨今「うつ病」が「誰でも陥る可能性のある病」であるとの認識や理解が高まってきた一方、それは「心の風邪」なんだから、風邪は治るじゃん。という認識です。

 

でも、精神疾患には色々な種類があります。

 

代表的なものでも、いわゆるうつ病双極性障害統合失調症発達障害

これらが基本的に社会生活を送る上でのその深刻度によって「障碍者認定」を受ける対象となっているかと思いますが、間違っていたらご指摘願います。

そして発達障害に至っては結構色々タイプもあります。しかも割と幼少期に先天性を認められる方もいるみたいだし、大人になってそうなんじゃないかって認定される人もいるみたいだし最近特に。

そして合併して各種障害圏の症状を発症する場合も多々あるようです。

私も一応、社交不安障害(SAD)を言い渡されております。

※確かこれは障害認定の範疇にはないと思いますが。

 

ここで「完治」って言葉は「病気が治ること」ってシンプルに理解していただけると思うので割愛しますが「寛解」という言葉について確認させてください。以下。

kotobank.jp

 

コトバンクより。

ちょっと乱暴な言い回しになるかも知れませんが、

「治ったかどうかアレだけど、表面上は症状が治まっている状態」

とでも言えばいいんでしょうか。

 

うーん。思うのはですね。

目で見て判断出来たり、科学的に原因物質や箇所なりを取り除くとか回復が見込める範疇の器質的病気とかについては完治なる言葉は割と判りやすいかもしれない。

でも、もういわゆる根本的な病根を取り除くこと自体が不可能な疾患や病気や障害については「完治」っていう言葉自体が使えないのかと。

 

精神的疾患について言えば、先天的とされるあるいは後天的とされる、または遺伝的要素がある、生育環境に引き金がある、病前性格と社会との関わりにおいて発症した、もう、色々きっかけは千差万別で。

 

で、ですね。

最終的に何を言いたいかというと、「完治はできん」というか完治した、って誰も決められないから「寛解」という表現を使うのですね。

 

だから「うつは○○で治る!」みたいな本はそもそも看板に偽りあり、だよ!

※これに関しては個人的に言いたい先がいろいろありますが、内緒(笑)

 

もちろん対応はいろんな手段がある訳です。薬物療法心理療法を筆頭に。

ただ、重要なことはその治療やケアをずーっと継続すること。

例えば一部の発達障害には長い目で見れば服薬しない方向もあるようですし、うつだって双極性障害だってできれば減薬あるいは薬を飲まない方向で治療されるお医者さんだっています。

 

でも。

「治ったー!すっきりー!また今までの生活でいいわー!」

ってな訳にはいかなそうなのね。

だからそれは「完治」じゃあない。

 

例えば双極性障害については今の医療の常識的な範囲では「一生服薬が必要」とする見解の方が伝統的みたいです。

※これについても「諸説あり」っぽいけど。今は。

 

どっちみち管理は怠れないことだと今の私は感じています。

 

昔の私は、死んだ。

障害と共に生きていくために、それまでの人生と決別するくらいの勢いで変わる意識が必要だ。

そういうことらしいです。

 

いわゆる寛解までの道のりは、それは当たり前のように厳しいと思います。

簡単なところで言えば生活習慣を変えなければいけないからね。

 

昔の私は、死んだ。

 

この「喪のプロセス」をどう受け止めていくのか、ですね。一番しんどいのは。

 

アディオス、昔の私。

 

以上です。