わからないことがわからないことをわかられない辛さと不安。

ども。

いきなり入ります。

 

何故これを書くかの委細も秘匿します。お察しください。

そういうことがあるんだ、ってことです。

 

「判断力の低下」と表現されることがあります。

疾患の種類はなんであれ、そうこうことがやはりあることはある訳です。

で、時折心理学カウンセリング系のメソッドというかワークとかでは、

「それはどんなだったの?」

「その時どう思ったの?」

「あなたはどうしたいの?」

などなど。認識を客体的に導く、或いは本人の意思の確認を求めてくるようなプロセスがままあります。

 

で、罹患者というか当事者にとっては当然のごとく困ったことが起こりえます。

「そもそもそれが『わからん』のんじゃ!」

 

まあ心理学的セラピーですから仕方ないと言えば仕方ないんですが、問われる側はそもそもそういう事が「よくわからない」事態に陥っているという矛盾が発生します。

 

これはねー、もう、辛いの一言ですわ。

 

だって「わかんない」んだもん。わかってたらもっと状況いい訳だから。

なかなかそれこそ「わかって」いただけないところなんですが、それまで「わかってた」つもりのことまで判らなくなるという一種の地獄ですわ。

 

そこに禅問答よろしく質問を突き付けられる辛さといったらもう。

わかりませんか?

わからんでしょうな。

 

まあ、わかってくれとは言いませんけど…

www.youtube.com

 

まあ、そんな気分にもなりますよ(笑)

 

改めて言います。

これはどうも特定の疾患についての問題ではないようです。最近の実感ですけども。

表現型はいろいろあるかも知れませんが、何らかの精神疾患の罹患者の方は何かしら「わからなくなってる」という自分でも困った事態を抱えているということです。

だから、知識やセオリーだけですんなりどうなるという状態ではないだろうということです。

多分ですけど、そういう状況に陥った人同志でも分かち合う事も難しいこともあるし、って何しろ「わからない」訳だから。

だから支援する立場にいる方々もこの「わからない」具合を何とか「あー、わからないのね」くらいには受け止めていただければ、何か少しでも進むのではないかと切に感じたりするのです。

病気についての本や理論やいろいろありますよ。でも「わからない」状態にある人間をひとつづつ「わかる」方向に導くのがその方向であるとすれば、その道のりは本ひとつ読んで済むような事態じゃないんだってこと。それこそわかっていただければ幸いです。

ただ、いろんなセラピーを受けたりとかも本人にとってもそれはトレーニングなんですよ。長い長い道のりの。

 

言い添えておけば「わかった」気分てのも危ないよー。

誤解や思い込みや、怖いこと言う様だけどそれこそ病気のなせる業かもしんないし。

 

まあ、わかんねえや。以上。