あらためて認知行動療法について。

こんばんは。

久しぶりになります。

 

前回ポストした問題については未だ解消をみた訳ではありませんが、それもそれで今回の考察につながることかとは思います。

 

さて表題。認知行動療法。CBT(Cognitive behavioral therapy)と呼ばれています。

リンクは貼りません。というのもこの療法にも色々な考え方や技法があるらしく、至極簡単に言うと「認知の歪みを矯正する」ということなのでしょうが、学会レベルでも異論もあるようで。

 

因みに私の履修しているメソッドはその中でも「認知再構成法」というものです。

哲学に興味を持たれて篤く学ばれた方や、そうでなくてもなんとなく文系学部の一般教養で哲学を履修された方は「ヘーゲル弁証法」という言葉をご存じあるかと思いますが、私が個人的に感じたのはアレかなあということです。

突っ込んで考えると弁証法自体も結構難物だけど、無茶苦茶簡単に言うと

「正・反・合」のアレです。アウフヘーベンへ向かうヤツです。

ごめん。説明が頭悪すぎて。興味があったら調べてください。

本当は細かいことを言えば、境界性パーソナリティ障害へのアプローチとして弁証法的行動療法 (Dialectical Behavior Therapy:DBT)

という特化したものもあるそうですが、個人的には基本は同じじゃないかと感じています。

 

例えば「何月何日何曜日何時何分、『こういうこと』が起こって私はイラッとしました」

で「その気分は、イライラ100%でした」とちゃんと数値化します。

そして、ここが心理療法的な部分と思いますが「自動思考」という考え方があって、これを明記します。

「私は『こういうこと』があったらイラッとするのは当たり前にちがいない!100%」とかとします。他の思考があってもいいそうですが、ホットワードを選びます。

そして「だってさ」って「根拠」を付けます。

「だってさ、あの人は私に『こういうこと』をしたから」

 

そうですねえ。『こういうこと』は私にとっては実に嫌だ。

 

で「でもさ」って「反証」を挙げます。自分の中で反論を試みる訳ですね。

「でもさ、あの人は私に対してだから『こういうこと』をした訳じゃないじゃん?」

「でもさ、別にあの人に限ったことじゃないじゃん?」

「でもさ、自分も別に近寄らなかったらよかったんじゃね?」

「でもさ、自分もそういうことする可能性なくね?」

どんどん反証を重ねて行きます。

 

そして「適応的思考」というところに結び付ける作業が続きます。

 

すごく雑に言うことをお許しください、と断っていきなり

「AだしBだけど、aだったりbだったりあるから、ゆえに『アウフヘーベン』」

 

どーん!

 

みたいに感じたのでした。

 

これ、断っておきますけど「心理療法」です。

これを毎日の生活の中で適用していくからこそ、「療法」足り得る訳ですが。

 

以下は精神の疾患とか障害とか全然関係ない見地で申し上げますけれども。

人間というもの、自らの考えの過ちを認めるということはなかなか辛いことでもあります。ただこれは「療法」なだけに、「あなたの生き辛さは、あなたの考え方の癖にもあるのだよ」と言っているのだということは判ります。

しかれども、ですよ。

結構大変ですよ、この作業は。

自分に起こる、ますもってストレスからくる不具合を自分の認知の歪みだと捉えてそれを「考え方を変換する」ことで回避して行こうってんですから。

実に哲学的です。だから向き不向きもあると思います。

 

明日「宿題」の提出期限です。

えーと、私のイラッときたことは…どれにしようかなあ。。

 

おやすみなさい。

 

うるせーよ!

こんばんは。

 

今日

「うるせーよ!」

って言い放ちました。

※そもそも人に対してこういうこと言っちゃいけない場所なんですよ、基本的に。

 

随分我慢していたんだと思うけど、私以外の方も関係していたせいだと思います。

咄嗟でした。

 

その対象者についての情報を基本的には出さないというスタンスで、私の心の在りようを後に考察してみたいとは考えています。

「失礼なコミュニケーション」について。

 

なんかモヤモヤしてます。

今日は以上です。おやすみなさい。

 

うるせーよ!

こんばんは。

 

今日

「うるせーよ!」

って言い放ちました。

※そもそも人に対してこういうこと言っちゃいけない場所なんですよ、基本的に。

 

随分我慢していたんだと思うけど、私以外の方も関係していたせいだと思います。

咄嗟でした。

 

その対象者についての情報を基本的には出さないというスタンスで、私の心の在りようを後に考察してみたいとは考えています。

「失礼なコミュニケーション」について。

 

なんかモヤモヤしてます。

今日は以上です。おやすみなさい。

 

人の能力を印象で判断したらイカン件について。

こんばんは。

 

あまりこのブログでは人さまのことに触れるべきではない、ということは承知しておりますが、ざっくり印象だけ。

 

前提。いろんな人がいる訳ですが。

見た目や印象でなんか決めつけちゃいがちなことってあると思います。

だけど一たびその人に何かを任せたら、思いのほか物凄く能力を発揮してくれることがあります。

 

疾患の種類は色々と思いますが、メンタル不調の可能性は誰にだってあります。

自分も周囲も認めたくなかったり、認めざる得なかったり、なんだかよくわからなかったりすることもあるでしょう。

 

でも、

能力は誰にでもあります。

能力を否定される状況があるとするなら、使う側がタコだから、と言ってもいいかも知れません。

 

全ての人が全能である訳ではありません。

ましてや何らかの事情を伴えば、能力を発揮することもままならない状況に陥るのかも知れません。

そしてそれを一番受け入れづらいのは、能力を発揮できずにいる本人かも知れません。

社会というか会社とかでの居場所、居づらくなることも本人にも問題があるかも知れませんが、それはその人の人間性だからってことにしちゃったら、もうそれまでで。

 

「自分はできないんだ」と思って放棄しちゃう状態も「自分はできるんだ」とできない状態を認められない状態も、どっちも悲惨ちゃあ悲惨です。

 

性格の問題とか人間性の問題とか、病気とか障害とか、ごっちゃにされがちだけど。

それをどうやって切り分けて前に進んでいけるのかの可能性をあきらめないことかなと。

 

以上です。

強い立場の人でもメンタル不調になりうる可能性について。

こんばんは。お久しぶり

 

まず安心して?ください。

我が国のうつの障害発症率は6.5%と言われているそうです。

10~15人に一人はなる可能性があるそうです。

因みに双極性障害ってのは0.8%だって。

 

で、唐突ですがずばり表題。

 

「うつ」を発症する因子に人間関係というのがあります。

人間関係というのは良くも悪くも力関係というのが出てきます。

別に人間じゃなくたって、動物だってそうでしょうけども。

片やその力関係というのは状況によって刻々と変化します。

 

大きな会社で能力のある方が認められて異動になったとしましょう。

それまではある一定の「力」を認められてのことです。

でも、皮肉なことにその「力」が異動先で通用しなかったら?

 

仕事はできます、実績あります。コミュニケーションにも自信があります。

鳴り物入りで違う環境に入っていきます。さて、受け入れられなければどういうことが起こるか。

極端な場合だと「総スカン」ちゅう状態もあるでしょうなあ。

 

ある意味気の弱い人より深刻な気もします。

なんたって自分では気が付かないだろうから。

 

社会関係ってのは面白いもんで、立場が上だろうが下だろうが異物は排除される方向で動くと思います。

大河ドラマなんか見てても顕著にわかりますが、降ってわいてきたような殿様は衆生に信頼を得るための実績を作らなければならないのはサラリーマンドラマともそうそう変わりないような。

 

これは私見ですが、関係の中で強みを発揮してきた実績のある人ほど孤立に弱いのではないか、という仮説です。

「経営者は孤独だ」なんてどっかのビジネス記事で読んだような気もしますが、それじゃまずいんじゃないか?どうだろう。

 

逆に元から関係に於いて強みを感じないタイプの人は意外と「別の意味で」孤独に強い気がします。別に検証した訳ではないですけども。

 

すごく雑に簡単にいうなら「強気に出ても集団でシカトされたら手も足もでない」ちゅうことでかな。

 

自分のコミュニケーションの問題点を把握できないというケースは別に障害を伴わなくても結構深刻に社会生活に響くのかも知れません。

「それまでは問題なかった」とか「自分はこれでやってきた」という自負がある人ほど、そこに気が付くのは困難なのかも知れないなあ、なんて。

で、意外とそういう人が職場でクラッシャー上司だったりするでだろう皮肉。

 

私は多分そういうタイプではないので、他人事っちゃあ他人事ですが、大変だよそれはなあ。と。

 

まあ一般論として、感じたことを申し上げました。

 

以上です。おやすみなさい。

開け心。「嫌い」の訳は我にあり。

こんばんは。

 

今日いつもは比較的「苦手だなあ」と思ってた方と普通に話をしてました。

ここ重要です。

 

当たり前のことを言いますが、世の中にはいろんな人がいますよね。

その中でも「苦手だなあ」とかむしろ積極的に「嫌いだなあ」と感じる人もいると思います。そのこと自体は自然だとも思います。

 

でももし世界の全員が少しでも分かり合おうとする姿勢を示せたらどうなるでしょうか。

 

突然理想主義的な言い方で恐縮です。

ただ私の今いる環境というのが、そこにいる人が皆「コミュニケーションを取ることについて努力している」なあという環境だと改めて感じる訳です。

 

再度言います。世の中にはいろんな人がいます。

苦手な人もね。

では、その苦手とか嫌いを決めているのは誰?自分ですね。

私はまだ認知行動療法ソーシャルスキルストレーニングも道半ばであります。

そして私の今の環境が特殊であることも考慮しなければなりません。

そこには若干のヒエラルキーもあるかも知れませんが、最終的にはなんらかの弱った状態でいらっしゃる方が多いこともあり、かつ利害関係はありません。あるとすれば立場とか方向性とか目指す目的とか、そういうことくらいです。

 

私は改めて今おかれているこの環境が「学びの場」であることを確信しました。

 

もし何か人間関係とか社会関係とかで悩んでいることがあるのであれば、考えてみてください。

それを嫌だとか嫌いだとかいう気持ちがあるのなら、きっとその半分は自分にあります。確実に。

 

選ぶのも自分、捨てるのも自分。

嫌うのも自分、愛すのも自分。

 

嫌な気分でいたいですか?そしてそれは人のせいですか?

結局自分なんですよね。

 

でも最後に一つだけ意地悪を言うとするならば、この問答は堂々巡りでもあるのですよね。

 

宗教とかだとよくいうでしょ?「許し」とかって。

意外と許せない自分にも遭遇する。それがきっと人間だったり。

業って深いからね。

 

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じゃ、おやすみなさい。

以上です。

感性を取り戻すためのプロセス。私のアイドル、ジャコとシドと。

こんばんは。

 

唐突ですが陶芸ってのは存外時間のかかるもので、たった二つ練り上げた器に3か月がけでようやく釉薬をつけるに至って。(親父ギャグではないぞ)

まあいいです。

 

最近、七宝焼もそうですがようやく手で物を作る快感というのを説明抜きに取り戻しつつあるような感触を覚えてきました。

 

で。

自分の感性や仕事や生活の劣化がいつから始まったのか、もちろん鬱を発症してから難しくなったのは判りますが劇的に難しくなったのは多分数年前から始まっていたのかも知れないけれど、正確にはよく判りません。

折々にそれを救済すべき動きもあったとは思います。でも、根本的にはままならなかったのは、それはやはり病というか障害というレベルに至る道程だったと言わざる得ないことでしょう。

 

時に私と同じとか似通った疾患を得ていたと言われる、私の敬愛する音楽や文学領域の表現者たちがいたことを私も知っています。

大成した人も破たんした人もいます。

特に音楽で言うならジャコ・パストリアスシド・バレット

ちなみに参考までにウィキペディア情報で申し訳ありませんが。

ジャコ・パストリアス - Wikipedia

シド・バレット - Wikipedia

 

この二人の特筆すべき点は、ミュージシャンでありがちな薬で死んだタイプではないことです。

もちろんこの二人は私にとっての大ヒーローで私なんか及びもつかない才能の持ち主であることは自明なんですが、あんなに豊潤であった才能を病気によって失ってしまった存在です。

二者の在りようはもちろん少し違っています。

 

ジャコは結局酒や薬ってのはあったようですが、死因は出鱈目やってたあげくの傷害から脳挫傷からの植物人間で親父があきらめたという。

シドはもう全然ダメになって表現者としてダメになっても生き続けて精神障碍者として生きて死んだという。

 

彼らは私の中ではミュージシャンとして超絶カッコよかったんだけど、人間としてはかなり超絶ダメな形で死んでいったんですよね。シドはまだマシなのかな?

 

今日のテーマは感性。

感性を失う事態が時として訪れます。精神障害というのはそういうことをはらんでいるようです。上記二人の例を出すまでもなく。

 

だけど今日は精神疾患がどうたらというお話はむしろしません。

 

もちろん超絶的な感性が受け取る側に何かを喚起してくれることはあるでしょう。

でももっともっと大切なことは生き物として生きていくことに基づく「感性」ということが大切なのかと思う次第で。

 

私はもっと若い時は少し勘違いをしていた節もありまして、芸術として重要なら社会生活なんてどうでもいいだろう、とかいう極論まで。

だからこの二人にも憧れていたのかも知れないです。

 

確かに、そういう身を賭する程に表現に捧げた存在は大きい。

でも、私はできれば普通に社会とコミットしてその中で感性を共有できる方がいいなあと、凡才の私は強く思うのです。

 

デイケアのワークで陶芸にも出会いました。もちろん七宝焼にも。

今の私にとっては音楽もそうであれかし、と思っています。

びっくりさせる才能があってもいいけど、私もみんなもできれば等しくでなくてもいいから楽しかった方がいいだろうと。

 

今後の私は不完全なことに恥じないような気がします。

 

タイトルの割には抽象的で印象な話ばかりで失礼しました。

皆さん、いい夜を。

以上です。おやすみなさい。