障害もリソース。

こんばんは。

寝しなのもう一発を。

 

この件については多分ですけど、今後複数回にわたって言及することになると思います。

 

表題。

「障害もリソース」

 

私、オクサンに「全てはリソース」って言われたことがあってですね。

なんじゃらな、と思っていたんです。

 

でもね、

自分の疾患をひとたび「障害」として認めた瞬間から、いや、違うな。

じわじわと、その意味が分かり始めていると言ったらいいでしょうか。

 

本当になんでもリソース、なんですね。これが。考え方ひとつで。

 

そういうことを今後も考えながらお伝えできればと思います。

予告編でした。

 

以上です。

大丈夫?大丈夫じゃない?

こんばんは。

 

えーと。今日もいろんなこと考えたんですけど。

というか、「!」って思った出来事もあったんですが如何せん口外できない歯がゆさというか。

でも、そういうこととちょっと関係があることを一般化して書いてみましょうか、というチャレンジコーナーです。そもそもこのブログそのものが(笑)。

 

「大丈夫」という言葉があります。

そもそも

大丈夫(ダイジョウフ)とは - コトバンク

コトバンクによると、そういうことです。

 

さて、この言葉を使うシーンを思い浮かべてください。

 

「大丈夫ですか?」

「はい。大丈夫です!」

 

多分ですけど、そういう時に限って本当に「大丈夫」なのか誰も保証できていない状況のような気もしますが、いかがでしょうか。

 

結論から言いますが自己判断による「大丈夫」は、大体「大丈夫じゃない」んじゃないでしょうか。

 

そもそも今の私の状況も包めて、「大丈夫」じゃないからリハビリしてるんですよね。

そもそもその判断が効かないから、つい「大丈夫です!」って何の根拠もなく言っちゃうんじゃないのかな。

 

大丈夫って言葉の危うさ。

多分冷静な判断が効けば問題点を発見できるだろうから、すぐさま大丈夫って話にはならないだろうなと。

 

自分で大丈夫って言っちゃうこと自体が大丈夫じゃないよな、なんか。

 

皮肉なことに人はギリギリまで頑張ろうとするのじゃないかなと。だから根拠もなく大丈夫!って根拠もない太鼓判を自分で押してしまうのかなって。

大丈夫って言い切るときは危険信号なのかも、って改めて思いなおしてみるとどうでしょうか?

 

頑張る意欲、頑張りすぎる現状、頑張れない事態。

でも、なんか「大丈夫」って言っちゃう人。

だめだろうな。大丈夫な訳はないよね。大概の人は大丈夫じゃない気がするの。

 

そこで。

いつでも人の手を借りる準備をしておくこと、人の助けを呼べる準備をしておくこと、そういう素直さを身に着けること。

大丈夫じゃないときの備えをしておくことが、大切なのかなあ。ってねえ。

 

大丈夫って自分で言っちゃうのって、孤独を選んでいるような気もするの。

私もそうでした。自分まだ行ける。判断できる。

ダメだったよ。そんなんじゃ、ダメだったよ。やっぱりというか気が付かなかった。

 

「ごめん。大丈夫じゃない。これお願い」って言える方が判断効いてるよね?

 

上手にお願いできること。これもコミュニケーションスキル(あんまり好きな言い回しではないけどねw)かも知れません。

 

大丈夫でいるためには、協力を上手に仰げることが大切ですね。

それを失うことは、やはり病的な状況と言わざる得ないのかなあ。

だとすれば、そういうことは実に身近にゴロゴロ転がっているよ。

 

この歌でも歌っていますが、「大丈夫」って言葉は自分で宣言する言葉ではなくて、人から支えられるときにかけてもらう最強の励ましなのかも知れませんね。

www.youtube.com

 

れいごとじゃないよね。

大丈夫じゃないよ。大概。

 

以上です。

 

 

 

 

生育環境とそれが及ぼす影響について。

こんばんは。

 

今週はド頭から勘違いで出るべきプログラムをすっぽかして、やらかした感満載です。もう役所への手続きにいかなくちゃってので頭いっぱいで。

デイケアは仕事じゃないので難をのがれていますが、これが仕事だったら一大事です。そういうことも含めて「未だ就業に能わず」な身と認めざる得ないのでしょうか。しょぼん。

 

今日お話ししたいことの契機はですねえ。

私は、私をご存じの方ならなんとなくお分かりいただけるかと思うんですけど、かなりオンオフがはっきりしている傾向があって、たとえば

「しゃべるか、だまるか」

どっちかだったりします。

何を言おうとしているかというと、この前担当さんに指摘された「とっちらかってしゃべりすぎ」の件です。

かつてある種の診断書で主治医から「障害とまでは認められないがアスペルガー的」なることも言われたのもそれなりに関係するのかも知れません。

 

生まれながらの発達障害の子とよく一緒になる機会があって(ここ重要なんですが、面と向かって会話ってのでもないのね)、「私、基本自分にしか興味が向かないし、自分の興味があること以外は何話していいかわからないんです」って仰ってて。って、ここで寸止め!

 

うーむ。

ワシもそういう側面ってあるかもなー。って思って。でもその子は「ちょっと違います!」だって。違うんだろうね。

 

で、表題。

「生育環境」。

「育成環境」と言い間違いそうですが、後者は育てる側の言葉になっちゃうのね。余談だけど。

 

こないだ私の「しゃべりすぎ」を踏まえて別のスタッフさんと別のプログラムワークの打ち合わせをしたときに

「私、結論のない話でも興味のあることならいくらでも話できるんですよ。昔から母親の話に付き合って、今でも夜またぎで話したりできるし。オッサンとしてはガールズトークにもかなり付き合える方の部類だと思いますよ。」

って。言ったの。したら

「あー。そういうことって関係あるかも知れませんね」

だと。

 

本当にウチのかーちゃんはよくしゃべる。不用意に電話しようものならてっぺんまたぎでとんでもないことになるし、久しぶりに実家に帰って話してようものなら、オクサンに「あんたら、何時だと思ってるんですか!」って叱られちゃうくらいの勢いでしゃべっちゃいます。

 

おしゃべりな母はいま、いくつだ?もうすぐ70になるのかな?

父はもうすぐ80になるかな?

そして私んちは、私を筆頭に男ばっかり4人兄弟でして。

現在、私48歳、次男46歳、三男44歳、四男34歳。

それぞれの形で家庭もある訳ですが。

 

思い起こせばです。私が生まれたとき母は21歳だったそうです。父はまあ30くらいだったのかしら。

ともかく私の言の葉もいかない内から若いかーちゃんは私を「話し相手」として措定していたようで、ともかく母子密着って言わないでもアレなくらい母親の影響はモロにかぶってる長男という存在だった訳です。

3人男のガキがいる中で比較的日本語が通じる存在、だったと。

 

面白いことにです。4人兄弟、すべて個性が違います。当たり前と言えばそうかも知れませんが、考えてみるにその時親がどういう状況で家族兄弟がどういう関係だったかによっても影響のされ方が随分違うようです。

 

私の家の家系はお世辞にもそんな育ちのいいというものではないのではないか、と思います。

だけど、その時代その世代で感じてきて生きてきたものが、それぞれに伝搬したのだろうとしか、今のところは考えられません。

 

一説に「子供と老人と病人」というカテゴリは近代という思想が作り出したもの、という考え方があります。(※この詳細については他の回に譲ります)。

ある種の精神障害については遺伝性の関係が言及されることがしばしばありますが、私思うに、時代性や関係性ってのもあながち看過できないのかなあ、なんて感じています。

 

今となって自分のかーちゃんを「あんた、ちょっとおかしくなかった?」って責める気にもさらさらなりませんよ。

だけど、おしゃべりなかーちゃんと一緒に育った私は、少なくとも興味のあることについてはおしゃべりであることを継承している、という事実。

 

最近、思うんです。

本当にぼーとして、ダメだー、って。そういう方々が、リハビリをするところにいてさ。

「しゃべりすぎ」って言われる自分、?、なんなの?みたいなw

 

正気ってどういう状態なのかね?

とすら思うね。最近。

 

感情をコントロールできるか、できないか。

これが病気であるとか精神障害であるとかを分ける水分嶺であるとするならば、私の「双極性障害」とされたことについて、どう家族と共有できるのかということも含めて、色々考えて行かないとアレかなと、思いますな。

 

以上です。

 

 

生育環境とそれが及ぼす影響について。

こんばんは。

 

今週はド頭から勘違いで出るべきプログラムをすっぽかして、やらかした感満載です。もう役所への手続きにいかなくちゃってので頭いっぱいで。

デイケアは仕事じゃないので難をのがれていますが、これが仕事だったら一大事です。そういうことも含めて「未だ就業に能わず」な身と認めざる得ないのでしょうか。しょぼん。

 

今日お話ししたいことの契機はですねえ。

私は、私をご存じの方ならなんとなくお分かりいただけるかと思うんですけど、かなりオンオフがはっきりしている傾向があって、たとえば

「しゃべるか、だまるか」

どっちかだったりします。

何を言おうとしているかというと、この前担当さんに指摘された「とっちらかってしゃべりすぎ」の件です。

かつてある種の診断書で主治医から「障害とまでは認められないがアスペルガー的」なることも言われたのもそれなりに関係するのかも知れません。

 

生まれながらの発達障害の子とよく一緒になる機会があって(ここ重要なんですが、面と向かって会話ってのでもないのね)、「私、基本自分にしか興味が向かないし、自分の興味があること以外は何話していいかわからないんです」って仰ってて。って、ここで寸止め!

 

うーむ。

ワシもそういう側面ってあるかもなー。って思って。でもその子は「ちょっと違います!」だって。違うんだろうね。

 

で、表題。

「生育環境」。

「育成環境」と言い間違いそうですが、後者は育てる側の言葉になっちゃうのね。余談だけど。

 

こないだ私の「しゃべりすぎ」を踏まえて別のスタッフさんと別のプログラムワークの打ち合わせをしたときに

「私、結論のない話でも興味のあることならいくらでも話できるんですよ。昔から母親の話に付き合って、今でも夜またぎで話したりできるし。オッサンとしてはガールズトークにもかなり付き合える方の部類だと思いますよ。」

って。言ったの。したら

「あー。そういうことって関係あるかも知れませんね」

だと。

 

本当にウチのかーちゃんはよくしゃべる。不用意に電話しようものならてっぺんまたぎでとんでもないことになるし、久しぶりに実家に帰って話してようものなら、オクサンに「あんたら、何時だと思ってるんですか!」って叱られちゃうくらいの勢いでしゃべっちゃいます。

 

おしゃべりな母はいま、いくつだ?もうすぐ70になるのかな?

父はもうすぐ80になるかな?

そして私んちは、私を筆頭に男ばっかり4人兄弟でして。

現在、私48歳、次男46歳、三男44歳、四男34歳。

それぞれの形で家庭もある訳ですが。

 

思い起こせばです。私が生まれたとき母は21歳だったそうです。父はまあ30くらいだったのかしら。

ともかく私の言の葉もいかない内から若いかーちゃんは私を「話し相手」として措定していたようで、ともかく母子密着って言わないでもアレなくらい母親の影響はモロにかぶってる長男という存在だった訳です。

3人男のガキがいる中で比較的日本語が通じる存在、だったと。

 

面白いことにです。4人兄弟、すべて個性が違います。当たり前と言えばそうかも知れませんが、考えてみるにその時親がどういう状況で家族兄弟がどういう関係だったかによっても影響のされ方が随分違うようです。

 

私の家の家系はお世辞にもそんな育ちのいいというものではないのではないか、と思います。

だけど、その時代その世代で感じてきて生きてきたものが、それぞれに伝搬したのだろうとしか、今のところは考えられません。

 

一説に「子供と老人と病人」というカテゴリは近代という思想が作り出したもの、という考え方があります。(※この詳細については他の回に譲ります)。

ある種の精神障害については遺伝性の関係が言及されることがしばしばありますが、私思うに、時代性や関係性ってのもあながち看過できないのかなあ、なんて感じています。

 

今となって自分のかーちゃんを「あんた、ちょっとおかしくなかった?」って責める気にもさらさらなりませんよ。

だけど、おしゃべりなかーちゃんと一緒に育った私は、少なくとも興味のあることについてはおしゃべりであることを継承している、という事実。

 

最近、思うんです。

本当にぼーとして、ダメだー、って。そういう方々が、リハビリをするところにいてさ。

「しゃべりすぎ」って言われる自分、?、なんなの?みたいなw

 

正気ってどういう状態なのかね?

とすら思うね。最近。

 

感情をコントロールできるか、できないか。

これが病気であるとか精神障害であるとかを分ける水分嶺であるとするならば、私の「双極性障害」とされたことについて、どう家族と共有できるのかということも含めて、色々考えて行かないとアレかなと、思いますな。

 

以上です。

 

 

精神科デイケアについて、どうしても気になっていた件の振り返り。

こんばんは。

 

今日は日曜日。楽しく過ごしましたよ。ええ、楽しく過ごしましたさ!

まあ、さておき(笑)

 

このブログを始めた当初あたりでリプライというか、お友達から反応をもらった記事があって、ずっと気になっていました。

to-shi-tsu.hatenadiary.jp

 

これについて私自身の現時点での中間的判断をさせていただきたく。

 

「お友達おじさん」の私が思うにですね、まず

・その精神科デイケア施設は、治療を目的とした医療機関として体をなしていない可能性がある。

・あるいは問題がある人物に対してしかるべきクレームがどこからも上がっていない不思議(上記と関連あり)

・その施設が合わなくて辞めるのは自由ではあるけど、それは治療を放棄したも同然。

 

というのが、中間的見解です。

 

勝手にがんばったって無理だよ。悪いけど。

私自身がそうだったんだから。そうしてこの「おじさん」といわれる歳まで放っておいたんだから。

 

精神科デイケア医療機関です。医療機関は病気とかを改善するためにあるのが前提です。

そこで不都合があるのは、その当該機関が一番憂慮すべきことのはず。

 

障害があることを意識できるなら、ケアすることを怠ってはあまり、というかかなりよくない気がする。今の私は。

 

がんばったって無理だよ。

手助けは利用した方がいいって。

以下はちょっと極端な例の曲だけどもね。

www.youtube.com

 

いい子になんか、なるな。

 

以上です。

 

【追記】

誤解のないように言っておかないとな、と思って。

「がんばったって無理」ってのは、自分勝手な判断で、という但し書き付きです。あくまでも。

どっちにしたってがんばって道を切り開いていかねばならんしね。

ちなみにこの曲を貼ったのは、単にかっこいいから。

「カスだバカだ」って歌ってますが、別に誰彼に対してではないよ。

むしろバカでカスなのは私ですね。

双極さんの「喜怒哀楽」について。

こんにちは。

今日はクリニックに行ってきました。

待ち時間の間、こんなご本を読んでおりましてもうすぐ読みおわります。
対人関係療法でなおす 双極性障害
http://amzn.asia/duvv7nI







水島広子先生の著ですが、数年前買った時にはそもそも読書自体もままならない状態だったことが思い出されます。
第一部辺りはやはりというか、基本的なところから始まっているので、読み進めるのが辛くて辛くて。
もちろん本読んだからどうこうなるってことではないのも承知だけど、そこは勝手判断はもっと危険なので勉強はしないと、ですか。

さて。そこでさっそく勝手判断(笑)
いや、言い方が悪いですね。自分なりに今のところの思いを表題についてまとめてみました、と言ったらいいでしょうか。

なんだか考えるにつけ、双極性障害に限ったことでも無いような気もしてくるんですが、どうも「喜怒哀楽」ってのは
「楽しみ過ぎず、哀しみ過ぎず、怒り過ぎないことが、最も喜びをもたらす」
てえことなのかしら、と(少なくとも双極性障害についてはですよ)言えるのかしらんと。

それはとりもなおさず感情のコントロールが大切、というところに帰結するような。

ほどほどが一番。過ぎたるは及ばざるが如し。
ちょうどいい♪
www.youtube.com


以上です。


【追記】
とは言え「健康な自己の喪失の悲哀」と言って、一度はかつての自分が「死んだ」ことを受け入れ、悲哀しきることが必要だそうです。
その件については別の回に譲ります。


アウェイに来たニューカマーへの対応について。

こんばんは。

 

いよいよ来月4月は入学、就職のシーズンですね!って

「!」ってなんだよ、って?(笑)

 

いやー、ドキドキしますよね新しい環境には誰しもドキドキしますよね。

 

で、新しい人が随時来る環境だったり期を以て入れ替わる環境だったり、色々あると思いますが、来るよ、ニューカマーが。

 

私いまいるところの環境が環境だけに特殊な空気もある訳ですが、「今日が初めてです」って人が素面なことはまあない訳で。

 

思い起こせば去年の12月、私風情もガチガチのゴチゴチだったことですよ。

だって「ここは結局何ばするげな?」という、腹に落ちない感がバリバリありましたから。

3か月目に入っていろんなことを理解できて、ようやくですもの。

それでもはたから見れば色々不都合が解消した訳ではないのだとも思います。「しゃべりすぎ」の件とか(笑)

 

えーと、借りてきた猫状態が8割、なんか方向がよくわからないけどテンションは上がってる人が1割、見るからに受け入れられない感満載なのが1割といった私見です。ええ、ごくごく私見です。

 

なんていうんでしょうかね、

話しかけるなというか話しかけづらいオーラにも「意識混濁してます」とか「ぼーとしてます」とかいうのから、「オレに触ると火が付くぜ」みたいのから色々あろうかと。

基本的に初手から自分からアプローチってのはあんまりない気がします。

ここは一般的な社会生活環境と大きく違うところかな。

 

よく言うけど、挨拶したんだけど返ってこなくてガッカリ、みたいなのはありますよね。

個人的にはそんなんフツーだよ、って思いますけど、ナイーブな方は気になさるよね。

 

もっと言えば私は会話なんかしたくないならしないでいいとすら最近思っています。てかできないっつう状態もあるんだし。

私は「沈黙に気まずさを感じにくい」という特性のおかげでそこのところは助かっています。

 

「慣れ」についての話を以前しましたけど、人によってはそれが慣れでもいいと思います。

大切なのはその人がそこにいる意味であるとか理由であるとかを受け入れられたときこそ、その人はなんらかの動きをするのだということかと。

 

黙ってる人がいると気になる方もいるだろうから一概には言えないけど、黙っててもそこにいることが少しでも他より心地いい場所であるなら、しばらく放っておいてもいいんじゃないかな。これは私の考え方ですけど。

間違えないでいただきたいのは、放っておくことと排除することは違うからね。

 

昔、それこそ昔堅気のサラリーマン世代の上司とかに「仕事はまず来ることが一番大事。いるのが仕事。そして待つのも仕事のうち」なんて言われた最後の世代かもしれません。私。

今や仕事上、そんな理屈は通らない時代かもしれないけれど。

 

ただ、「いる」ということの意味とか価値とか。

Be. Be with you.

 

生きてることそのものが、辛いと感じる状況の人もいるんだから。

いるだけでもいいじゃないかね。大してしゃべらなくたって。

 

以上です。