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メンタル系疾患とコミュニケーションの問題について。泣く。

こんばんは。

 

大げさなタイトルをつけてしまいなんだか恐縮ですが、昨日書いたことの延長線上にあることだと思います。

 

ちなみに今日のプログラムは「就労準備」と「SST(ソーシャルスキルトレーニング)」でした。

 

バイト時代も歴々とあるし割と転職が普通な職種だったので、履歴書くらいは書きなれてるつもりではいたのですが、3年前の離職から数えて具合が悪くなって以降、もう履歴書も職務経歴書も紋切型しか思いつかなくなって行き詰っていました。

そこで、異業種転職も視野に入れてなので、齢ここへ来て改めておさらいをする事態になっておる訳ですが、まー気持ち的になかなかキツイものはあります。

しかしコツコツとやっていくしかないんですけどね。

 

さて、SST。

 

タイトルについてなんですがこれ、コミュニケーション不全が元でメンタルにダメージを受けるのか、と、疾患があるが故のコミュニケーションの距離感がつかめないのか、と、卵が先か鶏が先かじゃないですけど両方向あるのだなあ、と感じておりまして。

 

人にものを頼むとき嫌に感じられないかなあとか、何かしてる人に話しかけるとき嫌に感じられないかなあとか、こっちが話しすぎて嫌に感じられないかなあとか、こっちが黙ってるのが嫌に感じられないかなあとか、そもそも何話していいか判んないっす、とか、それはもう色々あるでしょうけど、たぶん共通するのが、

 

「怖い」

 

これじゃないかしら、と。

 

なんか最近「自分のコミュニケーション対応には問題がない」と思い込んでる人の方がちょっと心配になってしまうくらい、わかるわかるー、なトピックに遭遇するのです。まあそういう施設だから仕方ない部分もありますけど。

こと私に至っては饒舌と沈黙の両方の特性を持っている厄介な部分もあるので、特に感じることがあります。

 

まあ疾患ですので生活習慣がうんたらというのは前提にあるはあるでしょうが、こと社会性におけるコントロール不全に陥るというのがこれはまた別の一面として重要なことかなと。

 

「自分は間違ったこと言ってないのに、何だか周りの反応がおかしいぞ?」

はい。これはこれで病的ってことで。

でも大体コミュニケーションとるのが怖くなるのが一般的みたいですよね。

 

そして意外に思われるかも知れませんが、うまくコミュニケーションが取れないと感じている人が必ずしもコミュニケーションを取ることを嫌がっている訳ではないケースが案外多いということを知ってほしいと思いまして。

 

もちろん身も心もクタクタになってる状態だと物理的に難しい状況にはなるでしょうけど、別に「拒否ってる」からそうなるばかりでもないんですよね。

もちろん「やりすぎちゃう」系の疾患もあるにはあります。私も含めて。

私なんか状況によって両方でてくるから、なんかもうカオスですけど。

 

前のポストに「ビン底メガネ」なる比喩を持ち出しましたけど、結構一回ぶっ壊れると多くの方がそういう距離感の取れなさに陥ってしまう様です。

 

私のことなんざ、とりあえずいいです。

どうやったらコミュニケーションを取れるのかわからなくなってしまったけど、どうやったら取り戻せるのかトレーニングをしている方々が沢山いることを知っていただけたら、と思います。

だから昨日も貼ったけど、もう一度この曲を貼ります。

 

「全てが分かり合えなくったって、ここで出会ったことは奇跡だろ?」

www.youtube.com

 

以上です。

 

どこにでもある、ホーム アンド アウェイ。

こんばんは。

 

人はホームにいるときは安心しますね。おおむね。

ホーム、っていってすぐ想像つくのはいいことですね。

 

私は「ホーム」って言われても、あんまり昔からピンとこなくて。

百歩譲って大学時代のサークルの仲間くらいかなあ。

 

ホームのホームは実家ですが、そこは私の育った家ではないのであまりホーム感がないというか。

熊本県で生まれ育ちましたが幼少期の転勤が多かったせいもあり、実はあまりホーム感がないというか。そもそも熊本弁がちゃんと喋れない(笑)

同郷の人に会っても、ざっくり九州って括りでどうにかこうにか共通項を見出すくらいなもんです。

 

まあ、ほぼアウェイでした。私の行く道は。

 

小さくても大きくても所属というか帰属意識というか、あると思うんですが。

それはおうちに帰ればいいお父さんお母さんであっても、通勤中や、仕事中特にお客さきや、お買い物を真剣にしているときとかは、あんまり「ホーム」にいる顔してる方ってお見受けしないなあ、って気が付いて。

 

私はどこへいってもアウェイなもんだから、ちょっとコンビニで買い物したり改札を通り抜けるときも、「ありがとうございます」って意識的にいったりすることがあるんですけど。もちろん余裕がない時はその限りではありませんけど。

 

あ、アウェイでは余裕がないってこと?

 

私、アメリカ人(アメリカで育った人たちのことかな)について、一つだけ強烈に尊敬に値する点があるんですけど、地域差はあると思うんですが基本的に「ソーシャライズド」なところです。

自分がアウェイにいてもアウェイから来た奴でもとりあえずあの社交的な「アメリカ的なあいさつ」ってのは有効な手段だなあ、と感じるのです。

 

そこ行くと、日本って「おもてなし」とか言うにはばかられるくらいシャイすぎるよね。人の事は言えないけども。

 

なんでこんな話をしているのかというととりもなおさず「コミュニケーション」のことを考えてのことです。

 

もっというと、円滑なコミュニケーションを促す要因、阻害する要因について考えています。

 

ホームにあれば安心する。それはわかるね。

ホームを失った、すでに失われている、そもそもアウェイにある状態においては、それをどうしていくのか。

 

どっちも幻想と言えば幻想かも知れません。

ホームだって幾多の障壁を経て築き上げられてきたものだろうし、アウェイに向かうのはまた誰しも必要な旅でしょう。

 

歩いてきた道だけが確か。自分のいるところがホーム。そうなりたいですね。

 

そしてこんな曲。

私にはアウェイをホームに変えるまで頑張るなんて、そんな大それたパワーは今のところ思いつきませんが、勇気づけられる唄です。

www.youtube.com

 

コード進行がサチモスの「トーキョーパーディーナーアイー♪」に似てますが、こっちのが先です!(笑)

 

以上です。

しゃべりすぎ!!

こんばんは。

 

今日は担当さんとの面談がありました。

ここ2週間の生活状況を小一時間つまびらかに開陳するコーナーです。

 

で最後に

「○○さんから見て、最近の私はどうみえますか?」

と尋ねてみましたところ、概ねいい方向にむかってますね、みたいなことをニコニコと仰っていただいたのですが…ただ一点。

「あのー、この前のトークのプログラムでちょっとおしゃべりが長いかなと感じました。疲れてるせいなのかな、って」

って、ニコニコと。

 

あー、この方はこういう言い方でズバッとくるのか!とびっくりしましたが(笑)

 

そう。私、自分の言いたいことがある件についてはともかくしゃべるらしい、というのは薄々危惧していたことです。オクサンにも

「あなた、同じことばっかり何回もいうし難解だし結論ないし」

って言われたことがあります。気にはしてましたが。。

 

反面、シチュエーションによっては一言も発することが出来ないくらいになるし、なんだろうこのアンバランスはと思ってはいました。

 

基本的には現在人間関係的、社会関係的にはごくストレスが少なく、あまり利害関係も気にすることがないのでそういう場面が多々起こりうるようで。

来所されている方の中には発言するそのものが難しい状態の方もいるので、そういう傾向が際立つようです。

 

「しゃべりすぎる」…

昔はお酒の席などで、調子に乗って…くらいに思っていたんですが、どうもそういう訳ではないらしいということがここへ来て如実に表れているようで、ちょっとショックー。

 

一般的に理想とされるコミュニケーションの在り方は「キャッチボール」なんでしょうけど、そういう局面の私のトークはもはや「ドッジボール」に近いものになっているのではないか、と。

一方で興味がなかったり自信がなかったり弱っていたりすると、黙ってる。

なんなんだよ、おめえは。と他の人には映るでしょうね(笑)

 

いや、笑えないか。

これ、直近の課題としたいと思います。

 

以上です。

「慣れ」という言葉への違和感と、「表情」が語る「不具合」。

こんばんは。

 

今日は朗読と手工芸をやりましたよ。

朗読のメニューの中では私が先週仕掛けた小林多喜二の「蟹工船」もあり、それはもう面白いご意見が聞けましたが、いつもながら残念ながらここではお話しできません。あしからず。

 

手工芸では七宝焼がだんだん慣れてきて生産性がよくなってしまい、次何しようかと思うくらいな。部材は施設にあるものでやってるのでアレなんですが、もういっそのめり込んでも良いくらいな状況に。

一回のワークでペンダントヘッドが二個作れてしまうくらいになってきて。

上達したらネット販売でもすっかぁ?ウソw。元手はかかるから。でもそれもまた面白いかもね。結果オーライ。自分次第。

 

さて、表題。

 

相変わらず詳しいことは割愛しますが、通所されてるさる女性の方(この方がどういういきさつで通っているのか、何を目指しているのか、たぶん就労でしょうけど詳しく知りません。それを聞く機会がないのと自分からそれを尋ねる必要を感じていないから)から、

「dubさんも随分慣れました?」って聞かれまして、

私も無粋なことに

「え、何にですか?」って聞き返して

デイケアに」

と、

お見受けするにこの方もどちらかというと私の事を「声かけづらい気難しい印象」を持っていらっしゃったのかな、とは思いましたけども。いやこの方だけじゃなくて、特定の場面において私は相当「声かけづらい人間」の部類に入るのだろうということは割と承知はしていますが。

 

で、たぶんこの方は最近の私の日常の態度をみて(リワークやデイケアに参加している方々と会話をしている状況)そう仰ったのだと思いましたが、私はその「慣れる」という言葉にちょっと違和感があったので「?」って言ったんだと思います、後から考えるにですけども。

 

そして私は答えました。

(「そうですね」って頭につけてあげれば、もう少し柔らかく親切なお応えになったかとちょっと反省しましたけど)

 

「それは『緊張感』が取れたんだと思います。

私はここのデイケアなるものが何をするところかどんな人達が来ているところかよくわからずに参加し始めたので、緊張があったのだと思います。

でも各プログラムを通して皆さんのお話しを聞く機会があったり、自分の特性や状態を改めて確認することで、ここにどんな方たちがいて、私がここで何をするべきかが判り始めたので、緊張感が少しほぐれて振る舞えるようになってきているのだと思います。」

 

まー、なんて堅い回答(笑)

 

まあ、その女性にしてみりゃ

「慣れてきましたね」

「そうですね。おかげさまで」

くらいの会話でよかったはずなのに(笑)

 

それでも私はこの「慣れる」という言葉にものすごく違和感があったということでこういうお答えになったんだろうなと。

 

考えてもみてください。

1年経っても2年経っても「慣れないものには慣れない」っていうのありますな。

適応障害」ってのがあるらしいですが(私は医者でも心理職でもないので詳しくは言及しません)、それって極私見ですが「慣れないことの成れの果て」の状態なんでしょうかね。

 

慣れる、も色々あって例えば「あんまりよくない状況」でも慣れちゃったら楽?そうかなあ。私にはそうは感じられません。

私、不器用なんですかね。そんな訳でそんな回答をしてしまいました。

 

でもこれは私の実感です。

だってこのリハビリ環境に適応しているだけのことは次に進むことと必ずしも保証するものではないと思っているから。

でも仲良くしたいよね、つながりを持てた人とは。そっちの方が気分がいいはずだから。

 

そしてその次のお話し。

 

表情にも具合にも「」をつけていますが(括弧くくり嫌がる人もいるんだよなあ)、これそうしないとなんか伝わりにくいかなと思って。

 

直球で言うと、精神の具合の悪い人の表情は「うつろ」です。てか、らしいです。まあ、私も施設に通うようになってこの辺のことは如実に理解できるようになりました。

精神疾患において表情や態度が固くなる傾向というのは言われているようでは知ってはいましたが、これほどまでとは、という感じです。

 

それは等しくわが身にも言えることで。

はたから見ればそのように見えたことは請け合いでしょう。

あと加えて言うなら、目。

「目は口程に物を言う」とは言いますが、私が躁状態でアレなときの目は

「サイコな目」と評されたことがあります。

簡単に言うと「イっちゃってる」感アリアリの状態なのかと。

※特に私の場合は躁鬱混合でやってくる場合が多いので、本人にも他者にも非常に判りづらい側面が多々あります。

 

もうね。

「感情のコントロール」なんて一口に言いましてもね、そこまで来るとそれは、それを以てして病んでると言わざる得ない状況、、、

基本的には弱ってるタイプの人が多い訳なんですけど、「ワシもそうだったのか」と思うと、何がそうさせるのかに思いを馳せずにはいられません。

 

まだうまく言えないんですけど、伝えたいのは「私はこの環境に『慣れた』のか?」

いいや。

「私はここで、自分の目的を少し理解しつつ、今までとは違う目標を探すのだということを少し自覚できたんです」

 

あんまり時間はかけられませんが、これからもっと。

 

以上です。

 

 

 

「ルサンチマン」という言葉と、「怒り」という感情について。

こんばんは。

今日は大上段なタイトルをつけてしまい、自分でもビビってしまいます。

なんじゃそれ。まあ、ちょっとチャレンジングに書き進めようかと。

直接デイケアとは関係あるのかな?ないのかな?ありそうなありそうな…

 

今日のデイケアはですね、就労準備というのとSST(ソーシャルスキルトレーニング)でした。どちらも対社会性を意識したメニューになっております。

でも今日はその委細についてはあまり言及しません。関係ないこともないのだけれど。

 

じゃあルサンチマンという言葉の簡単な定義を申し訳ないけどウィキペディア

ルサンチマン - Wikipedia

 

哲学用語ということですがすごく簡単に言えば「社会的弱者が強者に向ける反感」ってことでいいかしら?どうかしら?

で、これこの記述の序盤でも言及されてるけど逆転する場合もある訳ね。

でも「社会的強者」は割と短期間で回避できる的なことを言ってると思う。

この記述でもいろんな哲学者さんの解釈がある通り、割とぐるぐる回りがちな概念でもあることがお分かりいただけると思います。

ちなみにですがこの記述の中で「ロマン主義」ってのも出てきますが、今でこそロマンチックぅー♪とかいうとステキ度が高そうですが、本来のフランス語のニュアンスではかなり「バカにされた」感が高いと聞いたことがあります。ようわからんねw

 

話をもっとフラットにしたいと思います。

 

「むかつく」

 

こういう感情がそのルサンチマンなるものから来るって哲学者の先生たちは仰ってるみたいだね、って理解してみます。

 

そんな難しいことに立ち戻らなくても、って思うかも知れませんけど、例えば人間心理に肉薄する学問が今のところ心理学がチャンピオンだとして、その元はやっぱり哲学だから面白いというか、参考にはなるなと。

 

ここでは社会という概念が持ち込まれていますけど、社会って小さくても大きくても社会なのね。家族だって社会の最小単位とすることもありますね。

立場もモノ・コトによって逆転もするでしょうね。

 

で、まずこっちも言っておいた方がいいですかね。

「怒り」という感情。

ここはあえてなんかの説明を引っ張ってくることはしないことにします。

ルサンチマンの説明でも触れられていますし。

 

人はなんで、なんの理由で、どういう時に、どういう対象に「怒る」のか。

そして併せて考えたいのはその怒りでもって何を成し遂げようをするのか。

(が、本当に意識的に考えられているのか?)

対象は?求める結果は?

 

個人的な短絡な暫定結論ではありますが、概ね怒りの向かう矛先はこれは困ったことに図式的に敵対する関係ではなくとも、怒りのエネルギーが志向するベクトルは「破壊」なのではないか、ということです。

何を破壊するのかは知りません。でも矛先に向けられたものへの力学は破壊です。

簡単に言えば「攻撃性」ってことですかね。

 

で、こっからが難しい。

哲学者の先生たちは「社会」という措定をした上で論を立てていらっしゃる訳ですが、現実は社会そのもの。

でね、攻撃ってのは別に他者に向かうばかりでもなく、自分自身にも向かう諸刃の剣でもある訳ですよね。

 

…なんか分かった風なことを言おうとしてたらはっきり言ってこんがらがって来ました(笑)

勉強から離れるとこんな有様ですね。

 

まあ、本当に言いたかったのは感情のコントロールの中でも一番リスキーかも知れないと思う「怒りの感情のコントロール」についてです。

怒りってのの難しいところは、時には感情発散にもなりますし、社会変革すら導き出す力にもなるかもな反面、自滅というのもセットであるまさに諸刃の剣なのではないか、とね。

 

今日はあまりコラムとか引用しないで頑張ってみましたが、なかなか難しいですね。

でも感情って、喜怒哀楽っていうでしょ?

生き物であり人間である不完全だからそんなもの完全にはコントロールできないのだけど、これをコントロールする術を考えたり体得したりしていくのも人間社会で生きていくってことなのだろうとすごく感じます。

 

「むかつくヤツには咬みつけ」なら犬猫でもやりますよ。

でも人間はそういう訳にはいかない。

 

その裏側にメンタル不調というのもあるかも知れんとも、ひそかに思うのです。あ、不調って弱る方です。

「自己肯定感が低い」とか、あるでしょ?

私、あれって攻撃性の裏返しなんじゃないかな、と最近思うんです。

だからあえて「ルサンチマン」って言葉を思い至ってみました。

 

抽象的な回になってしまい、すみません。

でも、興味ある方にはどうかなー?なんて。

 

以上です。

 

本通所初日と医療福祉系の仕事について思う事。

こんばんは。

 

3月1日から精神科デイケアへの「本通所」というくくりになったのですが、今日はいつもと何も変わりませんでした。

いつもの通り午前は音楽療法、午後はペン習字だっただけです。

お昼ごはんは平らげました。

 

さて。

最近ちょっと触れていますが、医療とか福祉とかいうかリハビリ関連のお仕事について。

 

ごく個人的な現時点での結論を申し述べると、、、

お仕事としてはいろんな意味で「割に合わない」タイプの職務と言っていいのではないかと思います。※だから「イカン!」というのではないよ。

 

まずそもそもデイケアのスタッフを構成する職能の方々について。

看護師、社会福祉士臨床心理士作業療法士、エトセトラ。

こういう方たちはとても高いハードルの資格を有した上で、社会貢献度の高いお仕事についておられます。

だけどもよ。

その職責たるや外野が観察しただけでも、そうとう大変なもので。

なんちゅーかぶっちゃけていうと、そんだけ苦労して取る資格の上で毎日のお仕事をしているのに比して考えてみたら、それに見合った報酬を得ているとは(もちろん想像ですが)考えにくい訳です。

もっと簡単にいうと「大変な割にはお給金はそんなくらいだろうか」という。

 

さらに。

音楽療法士やWRAPのファシリテーターさんに至っては、これは単独では「生業に成りえない」という結論を得ました。

そもそも音楽療法士て認定資格(国家資格じゃないってこと)であり、かつその割にはアカデミックな音楽教育を経た上で心理学的な要素も問われ、ってんですよ。まず前提として「アカデミックな音楽領域」で成り立っていてその傍らでやるというような位置づけなのであると。

WRAPのファシリテーターに至ってはほとんど「当事者による自助グループ」なので、これは職業ではないのかも知れない。ほとんどボランティアに近い。

 

僭越ながら私ちょっとつい最近まで「自分にもできそうな福祉系のなんらかはなさそうか」なんて甘いことを考えていたんですよ。はいすいませんでした。

 

あのね、無理。

それだけ特殊スキルを磨いておられる方々が薄利のもと、意識高くお仕事をされている領域だということを痛感いたしました。

でもこの短期間で気が付いただけマシかとも言えます。ええオッサンが。

 

その上で改めていわゆる「高齢者介護」のことも考えては見たのですが、まだ精神的障壁があるのね。

いやーな言い方をするようだけど、正直に言うと私は基本的に

「年寄りと子供」が苦手

です。

それは心理的にアレを分析するとアレがああなって、とかあるのでしょうけど、基本的に。

でもね。

今日Facebookの方にも書いたけど、あとオクサン方のおとーさんも要介護とかさ、あったりするとさ。

「オレはお年寄りにどこまで関われるんだろうか?」

みたいな問題意識も一方には生まれていたりするのね。

 

まー、想像に難くないくらい介護っつうのはフィジカルにもメンタルにも経済的にも大変だろうというね。それくらいは想像つくっしょ。

 

でもねえ。

今の私は、元のさやの仕事をするってのはもう、選択肢としてあり得ないんじゃないかと強く感じている訳です。

 

そうするとですよ。

退路を断ってオルタナティブを探さにゃならんだろう、と考えるのね。

 

明日は「復職支援」なるプログラムがあります。

そういう事を胸に、一から考えていく私であります。

がんばる、しかないのよねー。

 

じゃ。おやすみなさい。

精神科デイケアというものの基本的な立場、あと「WRAP」について真剣に考えてみる。

こんばんは。

 

この2月は本当はあと1日来れば「本当の皆勤賞」でした。

確か2月1日、前週末にイレギュラーな出来事があって本当に調子悪くて出られなかったような。。

まあ、用事がある半休以外は全部通所しました。とりあえずそれはバロメーター。

そしてようやく明日から本格的に通所という扱いになります。

体験通所が3か月というのが「長いなあ」と思ってたのですが、そもそも通える状態なのかを見極めるのにそれくらい欲しいということだというのが判りました。気ばかり焦る人も多いでしょうねえ。私みたいに。

 

さて、今日ちょっとした機会で改めて私の通っているデイケアの在り方についての説明(視察された方向けの)を聞く機会がありまして。

で、表題のことです。

最初私はこのブログを始めるにあたって「精神科デイケアってなんじゃらなあ?」みたいなノリだったかと思います。

でも振り返ってみると「診療計画」なるものを提出したのですね。

 

結論ですが「精神科デイケアに通所する」ということは「医療行為」ということです。

もちょっと言えばコレは「福祉施設」ではなくて「医療施設」であるとも言えます。

 

当初私はよく内容について理解できませんでした。はっきり言って。

スポーツやったり陶芸やったりエトセトラ。なんなのよ。精神弱ってる人(ここも私の認識ちょっと間違ってます)向けのアレ?お年寄りとかのデイサービスみたいな?くらいに思ってました。そういう類いのプログラムについては。

でもね。体験して感じたのは、トレーニングなのね。

で、デイケアってのは医療行為ってことはこれらの各プログラムについて「裏を取ってる」ってことになる訳ですね。

だからリワークの方も各種疾患のデイケアの方も、取るプログラムが個別にカスタマイズされています。

フリースタイルで毎日出席しているデイケア通所者は私しかいないみたいなので(笑)

それは何でかというと私の目的が「毎日同じ時間に拘束されること」だからに他なりませんが。

来月から本当の通所が始まります。

何を意味するかというと「心理教育」を始めとした、病気のコントロールモードに入るということです。これまではウォーミングアップだった訳ですね。それでもかなりな発見と改善があったとは思います。

 

そしてもう一つ表題に挙げている以前から言及している「WRAP(元気回復行動プラン)」です。

その前にちょっと横道にそれますが、いわゆる心理カウンセリングというものは医療行為に属さないみたいなんですよね。判りやすい差は「保険がきかない」ところ。病院やクリニックに併設されていたりしますがそういう扱いです。

あんまり情報出しちゃいかんのでアレなんだけど私が通所している場所にはいわゆる臨床心理士は常在してないですし。なんかカウンセラーも制度変わるみたいな話もちらっと聞いたことはありますが、その辺はこのの本題ではないので置いときます。

【訂正】

臨床心理士が常在していない、と書きましたが誤りでした。

精神科デイケアには法律で看護師、作業療法士臨床心理士社会福祉系の方が何名とかって法律で定められているそうです。 

 

で、WRAP。

いや、ほんと、ちゃんと取り組んでみようかと思ってですね。ファシリテーターの方にお話しとか聞くと判らん事だらけになっちまってもー。みたいな。

 

でもですね。

その創始者の方であるところのメアリー エレン コープランドさんのエッセイを読んでちょっと愕然としまして。

wrap-jp.net

ものすげーかいつまんで言うと、そのお母さまは1940~50年代に「躁うつ病」と診断されて8年にわたる入院を経て、結局「自力で回復した」という話です。

まず時代を考えてみるとそれがいかに壮絶だったろうかが想像できます。

だってまだ薬ないんだもん。そして精神病院の蛸部屋へ押し込まれて、ですよ。どんだけよ。

で、娘さんが調査に乗り出す訳ね。

「良くなってる人にはなんか傾向があるに違いない」と。

したら、どうもそういう傾向があるらしいと。

医学で言えば「疫学的調査」なんだろうけど、それともちょっと違う、というのかなあ。

 

ともかく私が興味を抱いたのは

・罹患者当事者によるメソッドであるところ

・上からでもお仕着せでもないところ

・結局「自分」でしかない、という潔いいところ。

 

ここでした。

 

なんだかファシリテーターさんの話を聞くと、心もとない点もたくさんあったりする事実もあるんですが。

例えば

・そもそもそういう人(当事者)達って権威を嫌うところがあるから、特定の標準化基準が少なくとも日本にはないです。(え?って思ったね)

・で、組織化されてないが故、勝手連的な動きが多くてむしろ首都圏近郊にはコミュニティがないです。(え?)

・いちおう研修を受けることがファシリテーターのエンタイトルになってるんですが、それすらない人もいるようです(え?え?)

・日本での発祥は久留米の方の大学で、地方にはコミュニティが多数存在するようです(えーーー!!)

 

なんだこれ、すごく関わりにくいじゃん。

でも考えました。

これって結局いわゆる「自助グループ」に近い発想で運営されているのね。と。

でも、本気で自力で「元気な自分を回復する行動を(精査して)計画するのね」と理解しました。※俺だったらもっとイカした訳語当てたいぜ!とも思いますけど。あ、だから首都圏は「一匹狼」が多いのか?

 

ともかく。

これはビジネスというか、仕事にはならんな、とは今のところ思いました。

でもね。最近、「意志あるとこにはなんとやら」と思う自分もいるんです。

このWRAPでも重要なことは「自分の人生のハンドルは自分が握ること」なんですよね。

病気や障害もリソースだと考えれば、それを持ってるものにしかできないこともあるんじゃ、と思うんです。

 

最近、考えます。今後の仕事についてとか。

 

最近の人間は文明の発達による医療技術の進化によって、ほっといても(いや、ほっといちゃ厳しいか)80歳くらいまでは生きるという算段で動いています。

いや、動くったって動かなくなったりするから介護とか福祉とかさ、あるんだよね。でもそれをビジネスー、とか仕事ー、とかって枠でとらえるのもちょっと違うような気がしている昨今。

 

私の書いているブログの内容ってのは多分時系列でつながっているようだ、と最近感じるのですが、どうでしょうか。悩みも発見も決意も含めて。

 

私のこれから行く道行はまだまだ不明瞭ですが、私、齢50を目前に一つ区切り、チャンスをもらったものとして熟考したい所存であります。

 

なんか中途半端な締めになりましたが、、

今日は以上です。