「大切なこと」ってなんだろう。

ども。

あなたにとって「大切な人、もの、こと」ってなんですか?

 

ものすごく端折りますけど、すべてが「自分が大切」という実感の上に成り立っているような気がします。

 

今日はすべて丸投げにする形で申し訳ありませんが、考えてみてください。

 

大切な、を見失ってしまう、そういうことがあったらどうしようとかも含めて。

 

以上

甘えなのかな。近しい存在の人の「高EE」について。

ども。

 

最近身近な人間関係があまり思わしくないです。

理由は明白で私の態度がよろしくないからです。

病気を理由にしたくもありませんが(その時点でむかつく向きも多いですから)、私の躁傾向というのはどちらかというとハッピー躁というよりアングリー躁に属することが多いようなので。

 

表題に挙げました高EEというのがありまして。

seseragi-mentalclinic.com

 

読んでいただければわかると思いますが、要は家族や周囲の方の感情表出のレベルが高すぎると疾患者は再発を起こしやすい、ということだそうです。

 

でもさあ、相手がエラー起こせば頭にも来るよね。人間だもの。

そりゃあ私はうたた寝してましたよ。料理も焦がしましたさ。(詳細は略)

怒るんでしょうよ。虫の居所でも悪ければ。

 

で、こっちの症状は判りやすいくらい「どーん」と出現します。

 

どうしろっていうのさ。

だいたい家族や友達は病気の専門家じゃない訳だし、普通に近しい人間と接していればそりゃ怒ることだってあるでしょうよ。

でも「高EE」はなんちゃら、っていうのさ。専門家は。

 

実際双極性障害の方の場合、自分も含めて離婚しちゃう人ばかりです。

あと友達から距離を置かれる、だけならまだしも絶交されちゃう事態も。

個人的に思うんですが「この人はそういう精神の病気だから我慢しましょう、大目に観ましょう」なんてなおためごかしというかきれいごとでしょうよ。

むかつくだろう、そりゃ。私だって当該疾患の友人にむかついたりしますもん。自分の事は棚に上げた挙句。

 

うーん。

「私は病気だから理解してね。だからあなたはあまり感情表出(つまりむかつくな)しないでね」

とても本人からの説得としては無理がある気がします。

 

ときに別件で書こうと思ってたんだけど、こと双極性障害については日常生活における刺激的な出来事というのが、あんまりよくないそうです。

それはネガティブな出来事でもポジティブな出来事でも同様なようで。

なんだよ、そんなつまらん人生を送らないといかんのか、とも思いましたが、そういう事をトリガーに病気が悪くなるそうなんです。

困ったもんです。

 

人間は感情の生き物です。

自分の刺激をコントロールしようが、人間社会で生きている以上他の方々の感情にはそれなりに左右されるはずです。

まして精神の病という形で不完全な状態とはいえ、エラーを起こせば叱られる場面だって待っていることでしょう。

でもそれで一時的にせよ悪化したりする訳。どうすんだよそれ。

 

概ね精神疾患にはストレス耐性の弱体化がセットになって問題になることが往々にしてあるんですが、健常な状態の方だってストレスにさらされることは普通にある訳で、精神病んでる奴らだけ「特別扱いにしろ」ってのは納得いかんだろうというのは想像に難くない訳です。

 

私は最近、そういう事に悩んでいます。

 

以上。

 

解析されるためのマイヒストリー。

ども。

 

前置きなしでゴー。

 

大体精神科を受診するにあたっては「インテーク」と呼ばれる受け入れ時の問診というか「来し方」を洗いざらい告白しなければならないコーナーがあります。

何らかの形で裁判に関わった人は、それを想起してください、ってそんな人まれか。

 

「あなたはどこで生まれましたか?」とか「どんな子供でしたか?」とかから始まってヒストリーをつまびらかにしていく訳です。

 

で、今日そんなことを「多分この後三部作くらいで」やる予定の初回をやりました。

精神科のインテークですら、そんなにやらない。

 

多分これは、双極性障害の治療に有効とされる「社会リズム対人関係療法」とかでもやるエピソードの整理とも関係があるのかも知れませんが、比較的重篤な精神疾患として対応されている訳ではない復職プログラムに参加されている方についてもこういう「振り返り」みたいなことはするようです。(これ以上は言えません。)

※上記で言及した用語の詳しい解説については今回は載せません。それが主訴ではないので。

 

大体ですね。そういう事をしゃべりたがる人も少ないと思いますし、しゃべる機会も少ないと思います。始終飲み屋でクダ巻いてるような酔っ払いオヤジでもない限り。

自分で思ったのは、50を数える前後くらいの年頃になると自分の「黒歴史」を少なくとも若い方には「少なくとも面白おかしく不快ではない範囲で」伝えようとするなんらかの能力が働くのだなあと思った。

それはつまらん説教を垂れたくない、というのの反面なのかも知れない。

 

でも、この局面は相手は「専門家」

 

確実に「解析するため」の情報収集ですよね。たぶん。

でも私はオッサンとして明け透けにぶちまけました。

私が「明らかにうつです」っていうまでの経緯。

 

しかも、こっから続編が続くのね。

自分で開示してても思うに「躁エピソード」に該当するものってのがいろいろある訳ですけど、それは「病気」ってことにはなってない訳。

 

だからこの情報収集が必要なんだろうな。

 

私が思うに、ここ重要だと思っているのはスタッフさん達はいわゆる心理士さんではなくて福祉士さんだと思うんです(そこはちゃんと確認したい)。

 

だからこのプロセスは後々かなり重要になっていくのだろうなと。

ともかくスタッフさんとのいわゆる「ラポール」を形成しながらですね。

 

なんだかどんどん私の記述があいまいになっていくのをお許しください。

必要な方が必要な要素を必要な分だけ「ふーん」って形で伝われば。

もう、そういう気持ちでここで書いてます。

 

私のことはいいけど、あんまり生々しい話も聞きたくはないだろうから。

 

今日は以上です。

 

 

 

現時点で感じる音楽療法の可能性と限界について

ども。

最近、どうも私の言葉がつたないのか無意識の暗黒面が表れるのか、お叱りを受けることもままあり反省してます。だいたい後で。

 

で、今日もこれまた極私見です。

 

音楽療法というのがあります。実際現在私もそのセッションに参加してます。

音楽療法に於いては基本的に音楽療法士という認定資格を取得された方が講師としてやっておられます。

 

さて、音楽そのものについて考えること。

よっぽど嫌な思い出がなければ「音楽きらい」って人自体はそんなに多くないんじゃないかとは思います。

ただ音楽といっても範囲が広うござんす。

マイルスもバタやんも、モー娘。もラドウィンプスも、ショスタコービッチジョン・ケージも等しく「音楽」であります。

ここで問題。

「音楽好き?」から発生する話題って、大体残念な結果になるような気がします。そもそもそれぞれが好きな「音楽」が違うから。もっというと体験が違うから。

で突如表題に戻りますが、そんなこんなで例えば高齢者の介護現場などで音楽レクリエーション的なことをしようとして「ちーちーぱっぱ、ちーぱっぱ、すずめのがっこの先生はー♪」とかいって楽しいと思っていただければいいですが「ふざけんなこの野郎」と感じるお年寄りもいるだろうなあ、てな想像に難くない訳です。昼カラで「湯の町エレジー」でも唸ってた方がなんぼかマシかとか。

表題における「現時点で感じる限界」ってのはその程度のもんです。

だから可能性もあります。

 

音楽療法が活用できる場所ってのは、たぶんかなりな範囲であろうかと思われます。

たしかに扱う講師というのはどの程度までその裾野をとらえるかとか色々問題はあると思います。だから未だに認定資格なのだろうとも思います。心理学的な見地とかも必要だし。

 

これくらい作業療法として有用なメソッドもないとは思うんですけど、先述した通り受ける側の嗜好ってのがこれくらい別れる手法もないよなとか。

 

よく言うけど「人間らしく生きる尊厳」みたいなこと言うでしょ?

音楽の思い出って、この辺りにすごく隣接してる人生のリソースな気もするのですよ。

 

「ちーちーぱっぱ」で「あら、子供の時以来ね。みんなとこんなに楽しいじゃない?」と思う人と「ふざけんな、こいつらと一緒にすんな!」と感じる人もいるだろうな、と。それは障害の種類とか年齢とかあまり関係なく。

 

もちろん指導する側は一定の伴奏とかの技術は必要とされるのは無論、とも思います。伴奏くらいできなきゃ、話にならんもんね。

とは言え、指導する側のリソースも無限ではありません。例えばお年寄りのカラオケリクエストにすべて応えられることは多分不可能だろうから。

とちらにせよ勉強は必要な立場ですよね。

 

で、現時点で思うのは

「あらゆる参加者のニーズに対応しようとする受容性」

もちろん受講する方もそれなりにオープンであれば理想的ですが、なにせ「療法」ですから

ベートーベンがー、とかツェッペリンがー、とか東海林太郎がー、とかなんでもいいんですけどそういう人に「音楽療法はつまらん」と言わせちゃったらセンセイも辛いだろうけど、それってニーズに応えられてないって結果だから。

等しく音楽の機能としての有用性を示す、これとても難しい取り組みだと思います。

だから使えるリソースは何でも使って、みたいな先生も多いのではないでしょうか。

 

私は幸せです。音楽療法のプログラムを通して少なくともそのくらいのことには思いを馳せることができたので。

 

多分「療法」と銘打つ手段でとても諸刃の剣になるのは理論に基づいてるメソッドだからということで受ける側が感じるかもしれない「上から目線の押しつけ感」かもしれないです。こと音楽だと「これは権威的な音楽の手法でちーぱっぱ」とかやられたら、ねえ。それが嫌だという人はどう感じますかね。

 

音楽はすばらしい。ですけど音楽の好みは人それぞれ。だから難しい。

 

そういうお話しを少ししてみました。

以上。

いいこと。

ども。

今日はオクサンが帰ってきます。「いいこと」です。

このブログは狂想曲とは言っていますが実情はリハビリ日記であるはずなので、「いいこと」を書きたいと思います。

 

・今月は皆勤賞(とはいえ7割)を登録していますが、たぶん大丈夫でしょう。それが私の第一目標。で、今月は用事意外の半休意外はウィークデイ5日、ちゃんと通所できてます。

・各プログラムについてそれぞれ問題意識を持って取り組んでいます。毎日発見があります。少しは感性が目覚めつつあるのかもしれません。

・それを踏まえて、他のいろんなタイプの通所している方々の事情や状態に思いめぐらせたりもします。コミュニケーションの生まれいずる本当の意味を探りつつあります。それはおそらくそこにいる皆さんがそうだからです。

 

今日ちょっとうれしいことがありました。

なんていうかどっちかというと難しいかなと感じてた方とかなり有意義なお話しをすることができました。

目標を異にする他のグループの方々とも、共通の話題が見つかりいわゆる「普通な感じで」コミュニケーションが成立しました。

こんな場だからこそ改めて「コミュニケーション」というものの意味をみんなが問い直すことが出来る数少ない状況だと思いました。

コミュニケーションで悩んでない人なんていないよ、とも思います。

ちょっとの勇気とちょっとの分かち合いと、ちょっとした気遣い、距離感。とか。いろいろ。

 

当たり前を取り戻すための、当たり前が当たり前じゃないという発見の日々です。

ありがとうみんな。

 

以上。

 

【追記】

今朝バス停で嫌な思いをしたことがあったんだけど、それはあえて言いません。次の機会に譲ろうと思います。

わからないことがわからないことをわかられない辛さと不安。

ども。

いきなり入ります。

 

何故これを書くかの委細も秘匿します。お察しください。

そういうことがあるんだ、ってことです。

 

「判断力の低下」と表現されることがあります。

疾患の種類はなんであれ、そうこうことがやはりあることはある訳です。

で、時折心理学カウンセリング系のメソッドというかワークとかでは、

「それはどんなだったの?」

「その時どう思ったの?」

「あなたはどうしたいの?」

などなど。認識を客体的に導く、或いは本人の意思の確認を求めてくるようなプロセスがままあります。

 

で、罹患者というか当事者にとっては当然のごとく困ったことが起こりえます。

「そもそもそれが『わからん』のんじゃ!」

 

まあ心理学的セラピーですから仕方ないと言えば仕方ないんですが、問われる側はそもそもそういう事が「よくわからない」事態に陥っているという矛盾が発生します。

 

これはねー、もう、辛いの一言ですわ。

 

だって「わかんない」んだもん。わかってたらもっと状況いい訳だから。

なかなかそれこそ「わかって」いただけないところなんですが、それまで「わかってた」つもりのことまで判らなくなるという一種の地獄ですわ。

 

そこに禅問答よろしく質問を突き付けられる辛さといったらもう。

わかりませんか?

わからんでしょうな。

 

まあ、わかってくれとは言いませんけど…

www.youtube.com

 

まあ、そんな気分にもなりますよ(笑)

 

改めて言います。

これはどうも特定の疾患についての問題ではないようです。最近の実感ですけども。

表現型はいろいろあるかも知れませんが、何らかの精神疾患の罹患者の方は何かしら「わからなくなってる」という自分でも困った事態を抱えているということです。

だから、知識やセオリーだけですんなりどうなるという状態ではないだろうということです。

多分ですけど、そういう状況に陥った人同志でも分かち合う事も難しいこともあるし、って何しろ「わからない」訳だから。

だから支援する立場にいる方々もこの「わからない」具合を何とか「あー、わからないのね」くらいには受け止めていただければ、何か少しでも進むのではないかと切に感じたりするのです。

病気についての本や理論やいろいろありますよ。でも「わからない」状態にある人間をひとつづつ「わかる」方向に導くのがその方向であるとすれば、その道のりは本ひとつ読んで済むような事態じゃないんだってこと。それこそわかっていただければ幸いです。

ただ、いろんなセラピーを受けたりとかも本人にとってもそれはトレーニングなんですよ。長い長い道のりの。

 

言い添えておけば「わかった」気分てのも危ないよー。

誤解や思い込みや、怖いこと言う様だけどそれこそ病気のなせる業かもしんないし。

 

まあ、わかんねえや。以上。

 

 

 

書道、型、パターン認識、サチモスとか、その先の宇宙。

ども。最近連投ですが、それはオクサンが今週不在のせいもあるかも。

 

「美文字」という名の元に硬筆習字(ペン習字。「日ペンの美子ちゃんとかなつかしす)に取り組んでおります。

実は私、社交不安障害(SAD)と呼ばれるものから由来して時折書痙(手が震えて文字が書けなくなる状態)が発生することから、もう訓練という気持ちで始めました。

文字を書くこと自体がコントロール不全を起こしているせいもあり、最初筆圧とかガチガチで終わるころにはヘトヘトでしたが、今週なんかはちょっと姿勢に気を付けて躊躇せず書くように心がけただけでアラ不思議。全然感覚が違うのよオクサン。

 

で、もう今更言うまでもなく型を練習すると身体に身についてくる訳です。じわじわと。

 

ペン字の練習てのはマスが画いてある中に点線で十字が引いてあって、その中に字を書いたりするのですが、ここでまさに「パターン認識」っつう言葉を思い至った訳です。

パターン認識 - Wikipedia

もうこの一言だけで各領域で様々な論文等がひしめいていると思われますが、簡単に言うと上記Wikipediaのリンクの説明のようなことですね。主に情報工学、心理学、博物学なんかにも多くありそうです。

 

狭義な例ですが、例えばこの曲を聴いて何かの要素を取り出そうとするときにもそういうことが働く訳です。

www.youtube.com

 

で、持ってる情報の偏りよってバイアスがかかるという例がこちらの記事(笑)

kai-you.hatenablog.com

 

あるデータ群から一定の「型」を抜き出してどうこうするという、ざっくりいうとそういう事だと。

余談になりますが(全部っちゃあ全部ですがw)、こういう領域は工学的にはどんどん機械に取って代わられるという方向もありますね。

結果は何を意味するかというと、「人間のやる単純作業が減る→消滅する職業が増える」。

 

ただこれ、人間が普通に日常生活をしていく中でもかなり重要な要素だとも言えまして。

人はどういう形にせよ日常生活という「型」に合わせて生きている訳ですから。

 

私、最近は随分ご無沙汰してますがもともと楽器を触ってまして、で、型っていうの比較的苦手意識があったんですけど皮肉なことに手にした楽器がベースギター。

これってホント、パターン認識を試されるというか鍛えられる道具な訳です。

そこで私は好む好まざるに関わらず、そういう感性が磨かれてしまった。

でもとても残念なことに30歳前後にそれまで習慣的に演奏してきたベースを弾く機会がバンド解散に伴って激減することになり、実はそこから身体への変調が始まったという事実があります。

 

なんというか相変わらず素人解釈になりますがパターンとリズムって言葉って、セグメントや座標が異なるけど「規則性」ということでは一致していて。

 

そんなこと考えてると、私思うんです。

法則、て言うじゃないですか。

伊達にあるんじゃないよな、と思うんです。

 

その法則を知った上で、横紙を破るような新たな法則を見つけようとするのが学問や芸術の領域なのかなとかも思ったり。

 

パターン、様式を回顧することの大切さを改めてペン字や陶芸を通じて体感する次第です。

「あえて」何かを習うのは、時々生きる力をつけるヒントになるのだな。

 

これはごく個人的な意見ですが、皆さん、普通に文字書いてると思うでしょ?大体間違ってるみたいですよ。

それがダメってことじゃなくて、本来「なぜそうなってるのか」を知るとパターンってのが見えてくるようです。

間違ってることなんて何もない、んだけど、不都合なことが起きるとき、どうしたらいいのか?

宇宙の摂理ってのは、そのヒントくらいは用意してくれているようです。

 

以上。