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精神障害と「困ったちゃん」。双極性ヴァージョン。

こんばんや。

 

ここんとこ早朝覚醒が続いています。最初は抗生物質の影響で睡眠剤が効いていないのかと思ったら、どうもそれだけでもないのかな。

午前2時から3時、4時とかに目覚めます。

これまでは力技で二度寝してたけど、今日はどうにもダメで5時にはもう家をでました。でも疲れるわー。

 

ということで、表題。

最近NHK発達障害の特集があったらしく(すみません。観てませんが)話題になっているようで。

www6.nhk.or.jp

という訳なので発達障害の細かいことについては説明を省かせていただきます。

 

私も施設に通うようになって様々な発達障害圏の方々とお会いしてますが、本当に様々としか言いようがなく、ただ一様に言えるとすればコミュニケーション面において「何らかの」差異を感じられるということでしょうか。

良いとか悪いとかじゃないんですよ。差なんですよ。

突っ込んで言うなら、あえて「一般的」と言いますが世間で求められてる空気読むとか同調圧力とかそういう埒外にある感じとでも言えばいいでしょうか。

だからまあいわゆる「社会性」みたいな視点でとらえる時「困った感じ」が往々にしてあるというニュアンスでしょう。

 

社会性って言葉も改めて考えると面白い(可笑しい訳ではないよ)もんで、「あの人はああいう人だから」って一度受け入れられてしまえば問題なかったりもするんだけど、時折適応できないことが本人にすごく不都合をもたらす場合もあるのね。

 

「あの人は変わってる」

「あの人は難しい」

「あの人は判ってない」

「あの人は付き合いづらい」

まー、しょうがないでしょうが。周りに合わせられないんだもの。

この辺りは発達障害の方について特に言われがちなことです。

 

で、表題です。

発達障害の方の「困ったちゃん」度というのはNHKの当該番組を観て「そういうことなのか」と理解された方もちらほらいらっしゃるでしょう。

 

方や私も罹患している双極性障害っつうのがあって、改めて言うまでもないとは思いますが躁と鬱を繰り返す疾患なのねとは漠然と捉えられるけど、どうなの?

近年鬱状態についてはなんとなーく理解を得られてるぽいかなとは思いますがじゃあ

「躁」ってなあに?

って、意外とわからんものでしょう?どう?

 

学会の出してるいわゆる教科書的な資料が以下になりますので、もしご興味があればご一読あれ。

http://www.secretariat.ne.jp/jsmd/sokyoku/pdf/bd_kaisetsu.pdf

この中から「躁状態」についての抜粋は以下の通り。

 

1) 気分が良すぎたり、ハイになったり、興奮したり、怒りっぽくなったり して、他人から普段のあなたとは違うと思われてしまう

2) 少ししか眠らなくても平気になる

3) 自分が偉くなったように感じる

4) いつもよりおしゃべりになる

5) 色々な考えが次々と頭に浮かぶ

6) 注意がそれやすい

7) 活動性が高まり、ひどくなると全くじっとしていられなくなる

8) 後で困ったことになるのが明らかなのに、つい自分が楽しいこと(買い 物への浪費、性的無分別、ばかげた商売への投資など)に熱中してしまう

 

以上。

 

これ、かなりマイルドな表現になっていると思いますけどこれだけでも結構「困ったちゃん」度は高いと思いませんか?

想像してみてください。

実際にこういう面倒くさいヤツが身近にいて実迷惑をこうむる場面というの。

一応双極性障害には重度の躁とされるⅠ型と軽躁と言われるⅡ型というのがあるのですが、受け止める人の度量によってもかなり幅があるんじゃないかと考えています。

例えば私も警察沙汰や病院沙汰があって「困ったヤロウ」だと即判断されてたら精神病院に叩き込まれていたと思います。幸か不幸か私の周りの方々は実に寛容であったというべきと考えます。

 

私ね。極身近な存在にも「あなたのソレは果たして病気のせいなのか、性格のせいなのか」と問われたことがありますが、そんなもん本人にも判らんて。

そしてというか反面というか更に困ることに、私の知ってる友人レベルの存在にも双極性障害を認めてる人もいるんですけど、躁状態の時に限って往々にして「それは病気のせいじゃない」とか「今自分の状態は悪くない」とかひどいのは「もう治った!」とか勝手に言いだすヤツがいてですね。

個人的には不都合を病気とか障害を理由にするよりよっぽどタチが悪い気がするんだけど。

 

「困ったちゃん」は誰かしらに何かしらの迷惑をかけるが故に「困ったちゃん」な訳だけど、実害をこうむる人とそうでない人でも見方が少し違うようでもあるのかなあ、という実感もある。「被害者」としての経験もあるので。

だからなおさら自分の「困ったちゃん」をコントロール、ってのが気が気ではない。でもそれが難しいから障害ってお話にもなってるという。

 

当該番組でもおよそ触れられているだろう(想像に難くない)、障害を持っているからといって能力がない訳ではないという論もあろうかとは思いますが、障害とされるが故に何か決定的に欠けていることも片方ではありありな訳です。

そのどこをみるか、というのもあるでしょう。

あとやっぱり何しろなんらかの「困ったちゃん」だから、それはすり合わせるしかないだろうと。

 

鬱病とか双極性障害のことを「気分障害」っていう言葉でいうんですけど、何故感情の障害ではないのだろう、と当事者として思うことがあります。

聞いてる方もどうですかね?障害とはいえ気分で左右されたらたまったもんじゃないと思いません?

 

私のもうすぐ70になる母親につまびらかに相談したときに、最初全然判ってなかったみたいだったけど、いい歳をした息子がそういうことになったというのを一生懸命理解しようとしたのでしょうか。言ってくれた挙句の言葉は

「今は多いみたいね。でも誰だってそういうことは病気じゃなくたってあるとよ(熊本弁)」

うん、そうだよ母ちゃん。でもな「程度もん、ってのがあるとよ」と心の中では思いました。

 

この曲の冒頭のしゃべりのサンプリング部分でも言ってます。

是非耳を傾けてみてください。

www.youtube.com

 

まあね。そうは言っても本人も身をよじるほど困ることもある時もあるんよ、ってことだけ言い添えて今日は終わりにします。

 

以上。おやすみなさい。

今日はよく眠れるといいなあ。

 

 

神様、仏様、「受容と共感」様。

こんばんは。

 

もうね、このひと月近く位ずっと体調悪くて。

急性前立腺炎とそれを抑える抗生物質とで、よく判らないくらい身体的に疲弊していたらしく。事と次第によっちゃ入院一歩手前だってばさドクターの危惧したのは。

それくらい歳を取ると身体は若い時ほど無理が効かないということですね。

まあ、いいっしょ。近況はこれくらいで。

 

今日はいつもにまして漠然とした話になりそうで申し訳ないんですけど。

表題です。

 

「受容と共感」

この言葉自体も特別に解説のあるリンクは貼りません。読んで字の如し。

カウンセリングの技法であるところの「傾聴」や、コミュニケーションのトレーニング心理療法であるところのSST(もう説明しませんよ?)とかでもよく聞かれる言葉です。

 

受容と共感、って言葉にすればー♪簡単ですが…

これが出来れば大概のことは許せる、と思いませんか?

 

たとえば、別にカウンセラーでなくても

「うんうんわかるかわるそれでそれで?」

みたいな傾聴めいたことはあるでしょう。表現が雑ですけど。判りやすく。

 

判る訳がない。

 

だから困る。本当は実生活、実際の社会関係でストレスを感じるのはそこだと。

 

私はこの用語、目標とか理想としてはいいと思います。

でも神様のアガペーじゃないんだから、本当に受容できますか?って。

結論から言うと俗世の存在としての人間は、出来なくても当たり前でいいんだと考えています。

これ、みんな出来ましょうって方がムリゲーだから。

 

じゃあこの言葉、どう消化あるいは昇華すればよいだろうと考えます。

これはあくまでも私の現時点での印象論です。

「ダメなときゃダメよ。でもイイ時もある。ムカつく時もあろうけど結果オーライで」

くらいなニュアンスでしか、評価できません。俗世の人間としては。

 

受容と共感。

良い言葉ですよ。でも上から目線で言ってくれるな。

みんな必死でムカつくことをこらえて理解して行こうとしてるんであれば。

それすら放棄するのであれば、コミュニケーションのへったくれもないってことだろ?

 

念のため言っておきますが、これはこのブログにおける特化した「精神疾患」の話に限ったことではなく「人間関係」全般のことだと思っています。

 

許すことほど難しいことはないよ。意外と。

 

じゃあね。おやすみなさい。

 

障がい者就職セミナーというのに行ってきた。

こんばんは。

SNSで恥ずかしいキレやすい中年男性」です。

 

表題の通りです。

 

数か月前にも別企業が主催する合同会社説明会なるものに行ったのですが。

その時はいわゆる「3障がい」合同でしたが、今回は精神障害に特化したものでした。

※「3障がい」とは身体、知的、精神障害の3つの障がいのことを指します。 

 

中規模会議室で行われたセミナーだったのですが私の仲間も含めて

「こんなにも大勢の人間がそういったことが原因でそもそも就労がままならなかったり、頓挫したりしたのか」という思いでした。

 

ある一定の企業規模になると「特例子会社」というのを作ってそれこそ障碍者雇用だけに特化して雇用したりする訳ですが、今回のセミナーのケースもそういう企業の経営陣と実際に雇用されている方のインタビューがありまして。

 

ここで押さえておかなければならないのは「障がい者認定」を受けているという事実はいわゆる「健常者」と全く同じ条件で社会生活を送ることが困難とされる人々のことです。

そして精神障害といっても一様ではありませんから、これを主催した(というか勧誘を前提にされた企画と思いますが)就労支援事業所を運営する企業にせよ特例子会社を作って障碍者雇用に取り組んでる企業にせよ、一定の社会貢献をもくろんでの話であることは理解はしているつもりです。

 

昨今は精神障害についても雇用枠というのは法律で基準が変わってきていますし、取り組みを始めている各関係企業も増えてはいると感じてはいます。

 

ただなんつうか、ちょっとひどい言い方であることは認めた上で言いますけどなんらかの「おためごかし」感を拭い去れないというか。

言っちゃなんだけど法律と補助金で動いてる話だから、本当に精神障害当事者がどうとかとは別の軸で動いてる話に聞こえてくることが多いというか。

もちろん官民入り乱れてこういった件への取り組みが盛んなのは結果良いことの方が多いとは思います。

 

その上でまたSNSで恥ずかしいキレやすい中年男性」の精神障碍者である私が登場しますが、

生まれながらに発達障害とかで就労がままならない方とか(そうでない人も見ましたが)、就労前になんらかの精神障害なりで精神障害の雇用枠を考えている方とかはまあアレとしても「中年になって『お前ダメじゃんオッサン』と言われてしまった人」への配慮っつうのが、あんまりないのねという感想。

 

どこまで言っていい話か微妙ですがこの場で「国の方は推進してるのに地方行政はどうなんだ!」とラッシュしたオッサンがおりまして(かなり話はぼかしています)。

割とみんなびっくりしたっぽい雰囲気になったのですが、私思いだしたのは3年前に職安にいって「このどれかに該当しますか?」という問いに「躁鬱病」ってのがあって指さしたら、案内された⑤番窓口というのがいわゆる「障がい者向け」

しかも一等最初に言われた質問が「障碍者手帳はお持ちですか?」

で、ここで私はちゃんと理解できなかったんだけども、隣を見てみると私よりちょっと行ったオッサンが

「お前、オレは障碍者なんかじゃねえんだよ。これは持病なんだよ!」

と掴み掛らんばかりの剣幕でおらびたてておりました。

忘れられません。

 

でも、そういうことなんよね。

私はそれから一年くらい経て、反対だったオクサンに黙って(通っていた職業訓練コースのキャリアカウンセラーからの勧めもあり)手帳を取得しました。

オクサンは未だに許せないらしいですが、結果としてそうしてよかった訳です。その時カウンセラーの先生が言った言葉を忘れません。

「誰が反対したって、その人があなたの仕事を見つけてくれる訳ではないでしょ?」

その通り。

 

そういうのを経て、改めて思います。

いくらおためごかしの福祉系企業があってももちろん行政そのもの、あと私が世話になってる財団系もあります。

ともかく利用できるものは利用するしかない、と。

 

ひとりでは戦えないんですよね。

障碍者枠は賃金やすいとか贅沢言ってる場合じゃない。

このまま放っておくと「家賃払えない」ことになるから、

 

生きていくよ、裏切っても。ずるくても。

 

おやすみなさい。

www.melk.co.jp

あらためて認知行動療法について。

こんばんは。

久しぶりになります。

 

前回ポストした問題については未だ解消をみた訳ではありませんが、それもそれで今回の考察につながることかとは思います。

 

さて表題。認知行動療法。CBT(Cognitive behavioral therapy)と呼ばれています。

リンクは貼りません。というのもこの療法にも色々な考え方や技法があるらしく、至極簡単に言うと「認知の歪みを矯正する」ということなのでしょうが、学会レベルでも異論もあるようで。

 

因みに私の履修しているメソッドはその中でも「認知再構成法」というものです。

哲学に興味を持たれて篤く学ばれた方や、そうでなくてもなんとなく文系学部の一般教養で哲学を履修された方は「ヘーゲル弁証法」という言葉をご存じあるかと思いますが、私が個人的に感じたのはアレかなあということです。

突っ込んで考えると弁証法自体も結構難物だけど、無茶苦茶簡単に言うと

「正・反・合」のアレです。アウフヘーベンへ向かうヤツです。

ごめん。説明が頭悪すぎて。興味があったら調べてください。

本当は細かいことを言えば、境界性パーソナリティ障害へのアプローチとして弁証法的行動療法 (Dialectical Behavior Therapy:DBT)

という特化したものもあるそうですが、個人的には基本は同じじゃないかと感じています。

 

例えば「何月何日何曜日何時何分、『こういうこと』が起こって私はイラッとしました」

で「その気分は、イライラ100%でした」とちゃんと数値化します。

そして、ここが心理療法的な部分と思いますが「自動思考」という考え方があって、これを明記します。

「私は『こういうこと』があったらイラッとするのは当たり前にちがいない!100%」とかとします。他の思考があってもいいそうですが、ホットワードを選びます。

そして「だってさ」って「根拠」を付けます。

「だってさ、あの人は私に『こういうこと』をしたから」

 

そうですねえ。『こういうこと』は私にとっては実に嫌だ。

 

で「でもさ」って「反証」を挙げます。自分の中で反論を試みる訳ですね。

「でもさ、あの人は私に対してだから『こういうこと』をした訳じゃないじゃん?」

「でもさ、別にあの人に限ったことじゃないじゃん?」

「でもさ、自分も別に近寄らなかったらよかったんじゃね?」

「でもさ、自分もそういうことする可能性なくね?」

どんどん反証を重ねて行きます。

 

そして「適応的思考」というところに結び付ける作業が続きます。

 

すごく雑に言うことをお許しください、と断っていきなり

「AだしBだけど、aだったりbだったりあるから、ゆえに『アウフヘーベン』」

 

どーん!

 

みたいに感じたのでした。

 

これ、断っておきますけど「心理療法」です。

これを毎日の生活の中で適用していくからこそ、「療法」足り得る訳ですが。

 

以下は精神の疾患とか障害とか全然関係ない見地で申し上げますけれども。

人間というもの、自らの考えの過ちを認めるということはなかなか辛いことでもあります。ただこれは「療法」なだけに、「あなたの生き辛さは、あなたの考え方の癖にもあるのだよ」と言っているのだということは判ります。

しかれども、ですよ。

結構大変ですよ、この作業は。

自分に起こる、ますもってストレスからくる不具合を自分の認知の歪みだと捉えてそれを「考え方を変換する」ことで回避して行こうってんですから。

実に哲学的です。だから向き不向きもあると思います。

 

明日「宿題」の提出期限です。

えーと、私のイラッときたことは…どれにしようかなあ。。

 

おやすみなさい。

 

うるせーよ!

こんばんは。

 

今日

「うるせーよ!」

って言い放ちました。

※そもそも人に対してこういうこと言っちゃいけない場所なんですよ、基本的に。

 

随分我慢していたんだと思うけど、私以外の方も関係していたせいだと思います。

咄嗟でした。

 

その対象者についての情報を基本的には出さないというスタンスで、私の心の在りようを後に考察してみたいとは考えています。

「失礼なコミュニケーション」について。

 

なんかモヤモヤしてます。

今日は以上です。おやすみなさい。

 

うるせーよ!

こんばんは。

 

今日

「うるせーよ!」

って言い放ちました。

※そもそも人に対してこういうこと言っちゃいけない場所なんですよ、基本的に。

 

随分我慢していたんだと思うけど、私以外の方も関係していたせいだと思います。

咄嗟でした。

 

その対象者についての情報を基本的には出さないというスタンスで、私の心の在りようを後に考察してみたいとは考えています。

「失礼なコミュニケーション」について。

 

なんかモヤモヤしてます。

今日は以上です。おやすみなさい。

 

人の能力を印象で判断したらイカン件について。

こんばんは。

 

あまりこのブログでは人さまのことに触れるべきではない、ということは承知しておりますが、ざっくり印象だけ。

 

前提。いろんな人がいる訳ですが。

見た目や印象でなんか決めつけちゃいがちなことってあると思います。

だけど一たびその人に何かを任せたら、思いのほか物凄く能力を発揮してくれることがあります。

 

疾患の種類は色々と思いますが、メンタル不調の可能性は誰にだってあります。

自分も周囲も認めたくなかったり、認めざる得なかったり、なんだかよくわからなかったりすることもあるでしょう。

 

でも、

能力は誰にでもあります。

能力を否定される状況があるとするなら、使う側がタコだから、と言ってもいいかも知れません。

 

全ての人が全能である訳ではありません。

ましてや何らかの事情を伴えば、能力を発揮することもままならない状況に陥るのかも知れません。

そしてそれを一番受け入れづらいのは、能力を発揮できずにいる本人かも知れません。

社会というか会社とかでの居場所、居づらくなることも本人にも問題があるかも知れませんが、それはその人の人間性だからってことにしちゃったら、もうそれまでで。

 

「自分はできないんだ」と思って放棄しちゃう状態も「自分はできるんだ」とできない状態を認められない状態も、どっちも悲惨ちゃあ悲惨です。

 

性格の問題とか人間性の問題とか、病気とか障害とか、ごっちゃにされがちだけど。

それをどうやって切り分けて前に進んでいけるのかの可能性をあきらめないことかなと。

 

以上です。