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人の能力を印象で判断したらイカン件について。

こんばんは。

 

あまりこのブログでは人さまのことに触れるべきではない、ということは承知しておりますが、ざっくり印象だけ。

 

前提。いろんな人がいる訳ですが。

見た目や印象でなんか決めつけちゃいがちなことってあると思います。

だけど一たびその人に何かを任せたら、思いのほか物凄く能力を発揮してくれることがあります。

 

疾患の種類は色々と思いますが、メンタル不調の可能性は誰にだってあります。

自分も周囲も認めたくなかったり、認めざる得なかったり、なんだかよくわからなかったりすることもあるでしょう。

 

でも、

能力は誰にでもあります。

能力を否定される状況があるとするなら、使う側がタコだから、と言ってもいいかも知れません。

 

全ての人が全能である訳ではありません。

ましてや何らかの事情を伴えば、能力を発揮することもままならない状況に陥るのかも知れません。

そしてそれを一番受け入れづらいのは、能力を発揮できずにいる本人かも知れません。

社会というか会社とかでの居場所、居づらくなることも本人にも問題があるかも知れませんが、それはその人の人間性だからってことにしちゃったら、もうそれまでで。

 

「自分はできないんだ」と思って放棄しちゃう状態も「自分はできるんだ」とできない状態を認められない状態も、どっちも悲惨ちゃあ悲惨です。

 

性格の問題とか人間性の問題とか、病気とか障害とか、ごっちゃにされがちだけど。

それをどうやって切り分けて前に進んでいけるのかの可能性をあきらめないことかなと。

 

以上です。

強い立場の人でもメンタル不調になりうる可能性について。

こんばんは。お久しぶり

 

まず安心して?ください。

我が国のうつの障害発症率は6.5%と言われているそうです。

10~15人に一人はなる可能性があるそうです。

因みに双極性障害ってのは0.8%だって。

 

で、唐突ですがずばり表題。

 

「うつ」を発症する因子に人間関係というのがあります。

人間関係というのは良くも悪くも力関係というのが出てきます。

別に人間じゃなくたって、動物だってそうでしょうけども。

片やその力関係というのは状況によって刻々と変化します。

 

大きな会社で能力のある方が認められて異動になったとしましょう。

それまではある一定の「力」を認められてのことです。

でも、皮肉なことにその「力」が異動先で通用しなかったら?

 

仕事はできます、実績あります。コミュニケーションにも自信があります。

鳴り物入りで違う環境に入っていきます。さて、受け入れられなければどういうことが起こるか。

極端な場合だと「総スカン」ちゅう状態もあるでしょうなあ。

 

ある意味気の弱い人より深刻な気もします。

なんたって自分では気が付かないだろうから。

 

社会関係ってのは面白いもんで、立場が上だろうが下だろうが異物は排除される方向で動くと思います。

大河ドラマなんか見てても顕著にわかりますが、降ってわいてきたような殿様は衆生に信頼を得るための実績を作らなければならないのはサラリーマンドラマともそうそう変わりないような。

 

これは私見ですが、関係の中で強みを発揮してきた実績のある人ほど孤立に弱いのではないか、という仮説です。

「経営者は孤独だ」なんてどっかのビジネス記事で読んだような気もしますが、それじゃまずいんじゃないか?どうだろう。

 

逆に元から関係に於いて強みを感じないタイプの人は意外と「別の意味で」孤独に強い気がします。別に検証した訳ではないですけども。

 

すごく雑に簡単にいうなら「強気に出ても集団でシカトされたら手も足もでない」ちゅうことでかな。

 

自分のコミュニケーションの問題点を把握できないというケースは別に障害を伴わなくても結構深刻に社会生活に響くのかも知れません。

「それまでは問題なかった」とか「自分はこれでやってきた」という自負がある人ほど、そこに気が付くのは困難なのかも知れないなあ、なんて。

で、意外とそういう人が職場でクラッシャー上司だったりするでだろう皮肉。

 

私は多分そういうタイプではないので、他人事っちゃあ他人事ですが、大変だよそれはなあ。と。

 

まあ一般論として、感じたことを申し上げました。

 

以上です。おやすみなさい。

開け心。「嫌い」の訳は我にあり。

こんばんは。

 

今日いつもは比較的「苦手だなあ」と思ってた方と普通に話をしてました。

ここ重要です。

 

当たり前のことを言いますが、世の中にはいろんな人がいますよね。

その中でも「苦手だなあ」とかむしろ積極的に「嫌いだなあ」と感じる人もいると思います。そのこと自体は自然だとも思います。

 

でももし世界の全員が少しでも分かり合おうとする姿勢を示せたらどうなるでしょうか。

 

突然理想主義的な言い方で恐縮です。

ただ私の今いる環境というのが、そこにいる人が皆「コミュニケーションを取ることについて努力している」なあという環境だと改めて感じる訳です。

 

再度言います。世の中にはいろんな人がいます。

苦手な人もね。

では、その苦手とか嫌いを決めているのは誰?自分ですね。

私はまだ認知行動療法ソーシャルスキルストレーニングも道半ばであります。

そして私の今の環境が特殊であることも考慮しなければなりません。

そこには若干のヒエラルキーもあるかも知れませんが、最終的にはなんらかの弱った状態でいらっしゃる方が多いこともあり、かつ利害関係はありません。あるとすれば立場とか方向性とか目指す目的とか、そういうことくらいです。

 

私は改めて今おかれているこの環境が「学びの場」であることを確信しました。

 

もし何か人間関係とか社会関係とかで悩んでいることがあるのであれば、考えてみてください。

それを嫌だとか嫌いだとかいう気持ちがあるのなら、きっとその半分は自分にあります。確実に。

 

選ぶのも自分、捨てるのも自分。

嫌うのも自分、愛すのも自分。

 

嫌な気分でいたいですか?そしてそれは人のせいですか?

結局自分なんですよね。

 

でも最後に一つだけ意地悪を言うとするならば、この問答は堂々巡りでもあるのですよね。

 

宗教とかだとよくいうでしょ?「許し」とかって。

意外と許せない自分にも遭遇する。それがきっと人間だったり。

業って深いからね。

 

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じゃ、おやすみなさい。

以上です。

感性を取り戻すためのプロセス。私のアイドル、ジャコとシドと。

こんばんは。

 

唐突ですが陶芸ってのは存外時間のかかるもので、たった二つ練り上げた器に3か月がけでようやく釉薬をつけるに至って。(親父ギャグではないぞ)

まあいいです。

 

最近、七宝焼もそうですがようやく手で物を作る快感というのを説明抜きに取り戻しつつあるような感触を覚えてきました。

 

で。

自分の感性や仕事や生活の劣化がいつから始まったのか、もちろん鬱を発症してから難しくなったのは判りますが劇的に難しくなったのは多分数年前から始まっていたのかも知れないけれど、正確にはよく判りません。

折々にそれを救済すべき動きもあったとは思います。でも、根本的にはままならなかったのは、それはやはり病というか障害というレベルに至る道程だったと言わざる得ないことでしょう。

 

時に私と同じとか似通った疾患を得ていたと言われる、私の敬愛する音楽や文学領域の表現者たちがいたことを私も知っています。

大成した人も破たんした人もいます。

特に音楽で言うならジャコ・パストリアスシド・バレット

ちなみに参考までにウィキペディア情報で申し訳ありませんが。

ジャコ・パストリアス - Wikipedia

シド・バレット - Wikipedia

 

この二人の特筆すべき点は、ミュージシャンでありがちな薬で死んだタイプではないことです。

もちろんこの二人は私にとっての大ヒーローで私なんか及びもつかない才能の持ち主であることは自明なんですが、あんなに豊潤であった才能を病気によって失ってしまった存在です。

二者の在りようはもちろん少し違っています。

 

ジャコは結局酒や薬ってのはあったようですが、死因は出鱈目やってたあげくの傷害から脳挫傷からの植物人間で親父があきらめたという。

シドはもう全然ダメになって表現者としてダメになっても生き続けて精神障碍者として生きて死んだという。

 

彼らは私の中ではミュージシャンとして超絶カッコよかったんだけど、人間としてはかなり超絶ダメな形で死んでいったんですよね。シドはまだマシなのかな?

 

今日のテーマは感性。

感性を失う事態が時として訪れます。精神障害というのはそういうことをはらんでいるようです。上記二人の例を出すまでもなく。

 

だけど今日は精神疾患がどうたらというお話はむしろしません。

 

もちろん超絶的な感性が受け取る側に何かを喚起してくれることはあるでしょう。

でももっともっと大切なことは生き物として生きていくことに基づく「感性」ということが大切なのかと思う次第で。

 

私はもっと若い時は少し勘違いをしていた節もありまして、芸術として重要なら社会生活なんてどうでもいいだろう、とかいう極論まで。

だからこの二人にも憧れていたのかも知れないです。

 

確かに、そういう身を賭する程に表現に捧げた存在は大きい。

でも、私はできれば普通に社会とコミットしてその中で感性を共有できる方がいいなあと、凡才の私は強く思うのです。

 

デイケアのワークで陶芸にも出会いました。もちろん七宝焼にも。

今の私にとっては音楽もそうであれかし、と思っています。

びっくりさせる才能があってもいいけど、私もみんなもできれば等しくでなくてもいいから楽しかった方がいいだろうと。

 

今後の私は不完全なことに恥じないような気がします。

 

タイトルの割には抽象的で印象な話ばかりで失礼しました。

皆さん、いい夜を。

以上です。おやすみなさい。

 

「頭、おかしいんじゃねえの?」

こんばんは。

 

今日は危険球を投げるかも知れません。あしからず。

 

心理教育というのがありまして、これは当事者に自らの疾患について正しく認識させるために行う訳ですな。教育、うん。たぶんこういう言い方をするのは医療行為に属するのかな?どうかな?

 

精神疾患ならずとも一番嫌なのは「病気自慢」なんですけども。私も鬱を発症してからもう数えて18年になる訳で、当時はあんまり情報もなくて自分で調べざる得なかった部分も大いにありまして。

 

今更心理教育とかいって教科書通りのミミタコの話であろうことは承知の上ですけども、ここはそれ、そういう施設に通っている訳だから意見交換が有効かなと思っている訳です。

 

で、まずはうつ病

つまりうつ症状を伴う精神疾患というか障害というのは多岐に渡る訳で割と基本な訳です。

 

病識ってのは難しいもので、当事者が自分が罹患している病気というのを本当に正しく受け止められるかどうか。という問題があります。

 

教科書通りだと「そんなことは分かっているよ。だけど」みたいなことも起こりがちです。実際私がそうです。

 

でも、心理教育を通してはじめて「うつ」が脳の機能不全によって起こることを理解する方もいらっしゃいます。

 

常々思ってたことなんですけど、「メンヘル」って言葉がインターネット(特に2ちゃん由来かと思われますけど)を通じて広まったと思うんですが要はメンタルヘルスの略語ですけれども、これにずっと違和感を感じていました。

 

確かにメンタル、いわゆる精神に変調をきたすから精神疾患あるいは障害なんでしょうけども、原因は「脳」なんですよあくまでも。

 

鬱が「心の風邪」と言われて久しいですが、私はそれは全力で否定したい。

脳だよ。脳。

 

もちろんいろんな精神の疾患があるので一概には言えません。

だから私の言い分は多少乱暴かも知れないことを先にお断りしておきます。

 

メンヘル」という言葉に抵抗があるのは、脳の機能やあるいはプログラムが違う、というは一般的でないことによって「心」というか精神に何らかの一般的なことに適応できない状態をすっ飛ばしてるような感じを受けるからです。

 

再度言いますが「うつ症状」そのものはいわゆる単極的なうつ病と診断されるもの以外でも伴う症状ではあります。

だからこそ、そのうつ病のメカニズムを知ることは基本中の基本になるとも考えます。

 

表題はいわゆる「※個人の感想です」です。

もうね、あれ。いっそメンヘルとか言うくらいなら

「頭おかしいんじゃねえの?」とか

「イッチャッテルよね」とか

「基地外」とか

言われる方がなんぼかマシか気が楽か、って話で。

 

なんで脳の機能が一般的な作用をしないかなんて理由は千差万別です。

でも起こっている問題は概ね己が属している社会への不適応じゃないでしょうか。

問題なのは適応できないことなんですよね。

 

興味深いのは例えば気分障害と呼ばれるものと統合失調症と呼ばれるものと発達障害と呼ばれるものと、それぞれ脳の機能の問題です。が、方向性が違う訳です。

そしてそれに伴う各種症状があります。

不安、焦燥、不眠、震戦、エトセトラ。

これを「メンヘル」って言葉にひとくくりにするのは、どうかねと個人的には感じるのです。

 

生活習慣、大事でしょう。認知の歪み、これも捨て置けません。とは言え、心配いただいているとはいえ、それを他の人から教科書通りに言われて順守できますかね簡単に。

だからリハビリが必要なんだと痛切に感じている今の自分ではあります。

 

それこそ昔は精神病と言われるものについての偏見は今よりもすごかったと思います。

呼び方すらおぞましかった。躁うつ病(って言われてもなんのことやらだったけど)とか精神分裂病(この名前はおっかない)とか発達障害(今でこそ判るけど何それ?みたいな)、いろいろ。

 

昔、子供の頃の他愛ない冗談でも

黄色い救急車、ぴーぽーぴーぽー。」

なんてよく言ってました。

要は精神病は昔は差別対象でした。今はどうかな?私には判りません。

 

でも今は「心の病気」なんて言われるより「頭おかしいよなお前やっぱり」と言われる方がよっぽどちゃんとしないとな、っていう励みになるような気がしています。

 

「害基地は害基地なりに、普通に合わせようと頑張るわよ!」

心の叫びでした。

 

以上です。おやすみなさい。

 

 

リハビリを終えて、就業できたならば。

こんばんは。

 

この2、3週間くらいでいろいろなことがありました。

上がったり下がったり、疲弊したこともあると思うけど面白かったことも多かったと感じています。

決して「うつうつ」ではありませんでした。

でもコントロールを失うのはよくないね。うん。それは良くなかった。

 

目標としては、夏には就業することにしています。

ということは、前倒しで色々考えて想像してプランしないと間に合いません。

現状はともかくとしても、です。

本格的な心理教育なるものはこれから始まるのですから。

 

最近判り始めたのは「心理教育」ってのは、疾患を持つ当事者になされる教育な訳ですよね。

それは「当事者の病識」がとても大切で、それを判った上で本人がコントロールできる力を身に着けるかどうか、そういうことを教育する訳です。

これはさすがに専門家の領域なのだなあ、とすごく感じ入ります。

 

自分の疾患を理解して時には配慮も要求することが出来なければ、復職も再就職も難しいですよね。

 

私は今は、いろいろ修正も試みながら「自分は今後どういう職業生活を営んで行ったらいいのか」とか、そういうことを試行錯誤イメージしています。

まだ正解はありません。

 

でもこの歳にしてこの病を障害として受け入れた上で思うことは、

妥協はできない、ってことかな。

 

だからじっくり整える、考える、試してみる。この繰り返し。

しかもそんなに時間はかけていられない。まず目の前の生活を取り戻したりからね。

 

でも、少しづつ進んではいると思います。

一日一歩、三日で三歩、三歩進んで、三歩さがる(笑)

 

表題のこと。

私は今日思いました。

就労が可能になった暁には、このブログのタイトルを変えること。

もう案があります。

 

自分の障害と同じ障害を抱えていたという自分にとってのヒーローへの思いを込めて。

 

以上です。

おやすみなさい。

 

上がったり下がったりして凹む。そして認知機能障害というもの。

こんばんは。

 

突然ですが、イマココの私は躁状態でも鬱状態でもありません。

でもちょっと憂鬱といえば憂鬱。いやーな感じの言うなればマイナス3度くらい。

 

振り返ってみれば、、、

2月はとりあえず「毎日通う事」を目標にしていました。結果1日欠けましたけど。先ずはここにかかるテンション感は自覚以上にあったかもしれません。

そして3月から本通所ということで、次第に心理系、就労系のプログラムを増やしていきました。そして後半は私生活でも特別なことがありました。

 

考えてみれば。

一昨日辺りも書いたと思うのですが、ともかく刺激や緊張というのが割と多かった、いや割とというよりはかなり多かったのかも知れません。

 

タイトルのようにというか、実は自分では「上げに」行ってたのかな。基本的に。で、なんかドーンと下がったりするというか。

上手く言えないな、言葉で。

楽しんで笑ったり(まではいい。普通の感性ならね。)怒ったり悲しんだり(こっからが割と危険かなあ)、で下がって凹む、みたいな。

折れ線グラフにでもした方が判りやすそうです。

ていうか認知行動療法的なことではそういう事をするのかな?

まだちゃんと受講していないので、何とも言えませんけど。

ともかくタイトルの通り「上がったり下がったりして凹む」が一番厄介なのね。

 

で、あとタイトルの後半。

www.lab.toho-u.ac.jp

相変わらず勝手に貼らせていただいてるけど、きょうび、こういう形でいいのかな?

昔は「リンク貼らせてください」って仁義を切っていたような気がするけど。

まあともかく。

簡単に言いますと、ものを覚えにくいとか判断力が鈍るとか計画が立てられない実行できない学習能力が低下する人の気持ちが理解できないエトセトラエトセトラ…(全然簡単じゃなかった(;´・ω・))

 

実はこれ結構難しい話だなあと思って。

こういうことって各種疾患(発達障害の一部?や統合失調症で多く認められるケースがあるそうです)や、加齢(おそらく皆さんご理解いただける範囲では認知症みたいなこと)で起こりうるそうです。

何が難しいっていうとこういう事態をどこまでを障害として受け止めるかだということかな、と。

もちろん加齢による認知機能の低下というのは、別に障害云々をしなくても普通に起こることですよ。

でも概ね精神の疾患でも多少の差はあれ起こり得ると。

 

で、ですね。こと私について。

もう今にして思えばいつの頃からこれが低下し始めていたのかよく判りませんが、ダメっぽいという。

なぜ「ぽい」なのかというと、そもそも自分では「ちゃんと判断できていない」というパラドクスみたいのがあるからなのかと痛く思うのです。

なんでそんな言い方をするかというと大体にして身近な人間から指摘されることばかりだからです。これは私のケースですよ。

 

もう、アトランダムに実例を挙げちゃいますね。

・計画そのものが立てられない。

・人の言外の意図をくみ取れない。

・生活リズムが自律的に調整できない。

・自分の理想と現実が把握できない。(ビン底メガネの回でも言いました)

・ていうか、そもそも言われたことすらできない、と言うか、自分の解釈で捻じ曲げているようだ。

エトセトラ。

 

挙げ出したらもう、キリがないないような気が遠くなるような感じさえあるんですが、これはどうにも認知機能とやらがおかしいとしか言いようがないのかね、と。

 

言っておきますが、本人に悪気はありません(キッパリ)

いや、キッパリ言われても困ってるのは身近な人ってことになります。

だから概ね齟齬というか摩擦が生まれがちです。

だって、障害ったってさ。「それってあんたの性格、どうなのよ?ちゃんと人の話、聞いてる?」みたいなやり取りに、まあなるですよ。日常は。

 

もっと突っ込んで言えば、今のところ「認知機能障害」という精神障害認定はないのじゃないかな、ごめん今日はまだ調べてません。

考えてもみてさ。「障害があるんじゃしょうがないよね」って受け止める?それこそ普通。

困るのは当事者の近くにいる人達なんだよね。それは判るんだけど、自分も含めた当事者がそれを判りにくいっていうのもアレだ。

もちろん障害の特性でその傾向が顕著だと自覚されている方々もいらっしゃるようで、そういうタイプの人は対策を講じているようではあります。本当に偉いと思います。

 

ただ、なんだか人生の途中から障害の付帯的にそんなことが発生したようなタイプとしては、これはなかなか、それこそ認識し辛い問題でもありまして。

私本当によくこれまで明示的に会社をクビにならずに仕事させてもらってたなあ、と今にして思うくらいです。まあ、結果の話ですけども。

というのは、こういう事がいつから起こり始めたのかよく判らないんだもの。

 

そして一番気になるのが自己とか他者とかコミュニケーション系の問題で、

これらは精神の診断を受ける前からの自分の傾向だ「うわ!」っと思った辺りですけども

・人の意見を解さずに自分の主張に固執する。

・自意識や理想が高い割に自尊心が低い。

・生活リズムが不安定で学校や仕事などの環境に馴染みにくい。

とか、びっくりするくらい該当する訳でして。

こんなん、小学生くらいからの傾向だったからしてさ。

 

なんか、年齢を経るごとにその辺のことがややこしくなって来てないか?自分。

そんなことぼやいたって仕方ないフェイズなのはもう百も承知だけど、ねえ。

 

まあちょっと認知機能障害について整理する機会があったのは良いことではあったろうかと。じゃあどうしようってのが、まだアレな段階だけど。

 

上がってるときは「がんばります!」になります。

下がってるときは「もう無理です!」になります。

で、どよーん。

なんじゃこれは。

でも人生のほとんどこんな感じだったってことだぜ?どうなのよ!

 

全然まとまんない話になって申し訳ないですけど、こういう事で周囲の方々に迷惑をかけてしまう要素であることは必至であることはまがいなきことです。

 

あんなに張り切っていたのに、今私の状態と言えば

「未だ就業に叶わず」どころか

「未だ就業に能わず」を証明するも同然です。

 

周りの人が嫌だなと感じる人間と何処の誰が一緒に仕事してくれようって気になるでしょうか。

少なくとも家族友人を含め、認めてくれるようになるまで、改善が必要なんですよね。

 

以上です。